連載第7回 イップスの深層~恐怖のイップスに抗い続けた男たち証言者・一二三慎太(2)(前回の記事はこちら)夏の大会の直前、オーバースローからサイドスロー転向を決意した一二三慎太 東海大相模高のブルペンは、マウンドが横に4つ並んでいる。一二三…

連載第7回 イップスの深層~恐怖のイップスに抗い続けた男たち
証言者・一二三慎太(2)

(前回の記事はこちら)




夏の大会の直前、オーバースローからサイドスロー転向を決意した一二三慎太

 東海大相模高のブルペンは、マウンドが横に4つ並んでいる。一二三慎太(ひふみ・しんた)は、その右から2番目のマウンドに立ち、投球練習を始める。しかし、そのボールは指先に引っかかり、ブルペンの左端にあるホームベースへと向かっていった。

「僕自身は普通に投げているつもりなんですけど、ここ(指先)が言うことを聞かなくて大変でした」

 たった1球だけなら、練習中の笑い話になっただろう。しかし、一二三の投げるボールは何度も指に引っかかり、見当違いの方向に飛んでいく。右肩痛に端を発して投球フォームを見失い、イップスを発症した一二三は、しばらく実戦マウンドから離れることになった。

 巷間では、3年春のセンバツ後の練習試合で相手打者に頭部死球を与えたことでイップスになった......という説も広まっているが、一二三はそれを明確に否定する。

「僕、デッドボールっていうのは何もないんです。そういう問題じゃなくて、もう『自分』なんです。肩が痛くないように、かつ全力で放れる。そこを探しているだけなんで。自分のなかで考え過ぎて、『もうわからん』となってしまったんです」

 招待試合のため沖縄に遠征していた5月下旬のことだった。もちろん一二三はマウンドに上がることはなく、ブルペンで投球フォームを試行錯誤していた。そこでブルペン捕手の鈴木脩平が、ある提案をした。

「フォームがわからないなら、わけのわからない投げ方をしてみたら?」

 軽いトーンの鈴木に対して、一二三はその提案に乗ってみることにした。ちょうど招待試合で対戦していたのは、春のセンバツで優勝した興南。そのエース左腕である島袋洋奨(現・ソフトバンク)のトルネード投法をマネしてみた。しかし、腰をひねって投げてみるが、やはりしっくりこない。続いてアンダースローも試してみるが、これもまた手応えがない。次にサイドスローを試してみると、意外なことにリリースで指先にボールがかかる感覚があった。

「これ、しっくりくるわ!」

 そのとき、東海大相模の門馬敬治監督がブルペンにやってきた。驚いたことだろう。何しろ、プロ注目の本格派エースがサイドスローで投げているのだ。

「お前、何やってんだよ」

 最初は遊んでいるのかと思った門馬監督も、「こっちのほうがしっくりきます」という一二三の言葉に、「じゃあ、お前それでいってみろよ」と背中を押してくれた。

 一二三のサイドスロー転向のニュースは、瞬く間に高校野球界に広まった。春のセンバツで本来の投球を披露できなかったとはいえ、前年秋の時点での一二三の評価は「高校ナンバーワン右腕」だったのだ。そんなドラフト1位候補が、夏の大会を直前に控えてオーバースローからサイドスローに転向することなど、前代未聞の出来事だった。

 周囲の喧騒をよそに、一二三はサイドスローへの手応えを深めていった。なによりサイドスローで投げ込んでいると、指先にボールがかかる快感があり、そして肩の痛みがやわらいできたからだ。

「別にサイドじゃなくても、どこからでもよかったんです。僕は指先の『バチン』という感覚がほしかった。サイドスローにしたら『バチン』ときたので、これはいけるわ! と。フォームづくりは一からやり直しやし、球種も減りましたけど、ピッチングをしているという実感は戻ってきましたね」

 オーバースロー時代はスライダー、カーブ、フォーク、チェンジアップを投げていたが、サイドスローになると球種はスライダー、ツーシームだけになった。とはいえ、ストレートがシュート回転するため、右打者のインコースに食い込むような球筋もまた、一二三の武器になる。こうして急造サイドスローとして、一二三は高校最後の夏の大会を迎えた。

 しかし、いざ試合になると一二三の投球は一進一退を繰り返した。本人も「投げてみないとわからない」と苦笑交じりに振り返るように、誰も寄せつけないボールを投げたかと思えば、突然コントロールを乱すシーンも多く見られた。そして県大会に入ってからは、もうひとつの不安が一二三を悩ませた。それはサイドスローに転向してもなお、右肩に痛みが出てきたことだ。

「肩が痛くて、大会が進むにつれてヒジの位置も徐々に下がっていきました。映像を見返してみると、自分の感覚よりも下で投げていましたね」

 投球が思うようにいかない反面、一二三の打棒は火を吹いた。打撃練習など、ほとんど何もしていないに等しかったが、とにかく勝ちたい一心だった。

「自分が打つと、野手がもっと打ってくれていたので『打ったろう!』となりましたね。バッティングはただ好きやっただけなんですけど」

 チーム打率.371と打線の援護にも助けられながら、一二三はエースとして神奈川大会を投げ切り、優勝を飾る。当時の東海大相模にとって、夏の甲子園出場は実に33年ぶりという、重い扉だった。

 甲子園でも「投げてみないとわからない」状態は続いた。初戦の水城戦では8四死球と不安定な内容ながら辛くも勝利すると、続く土岐商戦では1安打完封と快刀乱麻の投球を見せる。一二三は「土岐商戦はバチバチ指にかかっていました。でも、日によって(感覚が)違うので、わかんないんですよ」と振り返る。そして、「今だから言えることですけど」と前置きした上で、こんな本音を漏らした。

「甲子園で勝ったら、普通なら『よっしゃ!』ってなるじゃないですか。あれだけきつい思いをしてきたわけですから。でも僕は『また次もあるんか......』と思っていました。うれしかったのは、甲子園出場を決めたときだけでしたね」

 フォームも体もすでにボロボロ。しかし、皮肉にも東海大相模の強力打線と、決定打を許さない一二三の類まれな投球センスが負けることを許さなかった。こうして、東海大相模は決勝戦まで勝ち進む。決勝戦の相手は、沖縄の招待試合で戦った興南。一二三がイップスから抜け出すためにフォームを真似た、あの島袋と投げ合うことになったのだ。もはや奇縁としか言いようがない巡り合わせだった。

 しかし、一二三はもう限界だった。

「肩の痛みがピークで、指にバチンとかかる感覚も減っていました。もう2回には、マウンドに上がって『きついな......』と思った記憶があります」

 3回まで無失点と踏ん張った一二三だが、4回に打者11人に対して7安打を許して一挙7点を失う。結局6回までに13点を奪われ、一二三は甲子園のマウンドを降りた。チームは大敗を喫したものの、それでも全国準優勝。しかも、エースがわずか3カ月前までフォームを見失っていたことを思えば、奇跡と言ってよかった。

 大会後、一二三は「中学時代からの目標で夢だった」という高校日本代表に選出され、勇んで代表に参加する。当時のチームメートには山田哲人(ヤクルト)らがいた。一二三は右肩にテーピングを貼り巡らせて日米親善試合で2試合に登板し、日本に帰国する。そして一二三は、門馬監督に初めて右肩が痛いことを告げたという。

「ウソだろ......」

 門馬監督は絶句したという。一二三がイップスだったことは明白だったが、投球練習は続けていたのだ。右肩に異常があることは、本人が明かさない限りわかりようがない。一二三の強情さが招いた事態だったが、右肩の不調を隠し通したことに関して後悔めいた言葉を口にすることはなかった。

 そして、一二三は2010年秋にプロ志望届を提出する。右肩に不安があり、フォームが不安定な投手をドラフト1位で指名する球団はなかった。それでも、一二三の打撃面を含めて素材の高さを評価した阪神が2位で指名する。

 だが、その前途にはこれまで以上の困難が待ち受けていたのだった。

(つづく)

※「イップス」とは
野球における「イップス」とは、主に投げる動作について使われる言葉。症状は個人差があるが、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが、自分の思うように投げられなくなってしまうことを指す。症状が悪化すると、投球動作そのものが変質してしまうケースもある。もともとはゴルフ競技で使われていた言葉だったが、今やイップスの存在は野球や他スポーツでも市民権を得た感がある。