旅には、おかしなことがつきものだ。蹴球放浪家・後藤健生は2001年、2つの日本代表を取材するためにアルゼンチンからスペ…
旅には、おかしなことがつきものだ。蹴球放浪家・後藤健生は2001年、2つの日本代表を取材するためにアルゼンチンからスペインへと向かった。その旅は、コルドバからコルドバへと向かうという奇妙なものだった。
■アルゼンチンとスペイン「2つのコルドバ」
「コルドバ発・コルドバ行き」というチケットを作ってもらったことがあります。
別に、世界一周をしたわけではありません。出発地がアルゼンチン・コルドバ州の州都コルドバで、到着地がスペインのアンダルシア州コルドバ県の県都コルドバだったのです。
ポルトガル領だったブラジルを除いて、南米大陸の大半はスペインの植民地でした。
1533年に探検家フランシスコ・ピサロが現在のペルーにあったインカ帝国を征服し、スペインはペルーを拠点に支配地域を拡大していきました。アンデス山脈に沿って南下したスペイン人たちは、現在のアルゼンチン領土に入り、そこにアンダルシアのコルドバの名を取って「コルドバ・デ・ラ・ヌエバ・アンダルシア」という都市を建設。南米大陸最古の大学もこの街に作られました。
植民地に建設した街に故国の都市の名を付けることは、ごく普通のことでした。たとえば、オランダ人は北米大陸に「ニュー・アムステルダム」植民地を建設。その「ニュー・アムステルダム」を占領したイングランド人は、そこを「ニュー・ヨーク」と改称しました。
現在のアルゼンチンの首都は大西洋に面したブエノスアイレスですが、大西洋岸が発展したのはコルドバの建設よりずっと後のことです。
そのコルドバは1978年のワールドカップの会場となり、そのときに建設されたスタジアムは、1978年大会の英雄にちなんで現在は「エスタディオ・マリオ・アルベルト・ケンペス」と呼ばれています。
■トルシエ・ジャパンがフランス代表に「0-5」大敗
僕が、「コルドバ発コルドバ行き」の航空券を買ったのは、2001年のことでした。
このとき、僕は3月23日に成田空港を発って、5月2日に帰国する長期取材旅行の最中でした。
3月24日に、フィリップ・トルシエ監督の日本代表がスタッド・ド・フランスでフランス代表と対戦し、0対5と大敗した試合を観戦した後、ポルトでポルトガル対オランダ戦、ロンドンでUEFAチャンピオンズリーグのアーセナル対バレンシア戦を見てからアルゼンチンに渡って『サッカー批評』のアルゼンチン特集の取材を敢行しました。
ちなみに、アーセナルの試合の後、ロンドンからパリ経由でブエノスアイレスに向かう予定だったのですが、その飛行機に乗り遅れるというトラブルがあって、ブエノスアイレス到着は1日遅れてしまいました(「蹴球放浪記」第8回「開かれたブエノスアイレス行きゲート」参照)。
■U-20代表をアルゼンチン、フル代表をスペインで
滞在中には同年6月のワールドユース選手権(現、U-20ワールドカップ)アルゼンチン大会への準備のため、U-20日本代表がアルゼンチンに遠征してきたので、その試合も観戦しました。
もっとも、アルゼンチン代表との練習試合は非公開だったので、観戦できたのはU-20リーベルプレートとの試合だけでした。そこで、日本チームが4月22日にアルゼンチンのコルドバで、コルドバのU-20選抜と対戦することになっていたので、コルドバでこの試合を見てから、そのままブエノスアイレス経由でスペインに向かって、フル代表のスペイン対日本戦を観戦する予定を立てました。
そして、4月25日のスペイン戦の会場が(アンダルシアの)コルドバだったので、「コルドバ発コルドバ行き」航空券を買うことになったのです。