考 「考える」――。早大レスリング部で主将を務めた深田雄智(スポ=千葉・日体大柏)は大学4年間をこう振り返る。どうしたら勝てるのかを常に考え、大学2年時には全日本学生選手権(インカレ)優勝、大学3年時には全日本選抜選手権3位などの結果を残し…
考
「考える」――。早大レスリング部で主将を務めた深田雄智(スポ=千葉・日体大柏)は大学4年間をこう振り返る。どうしたら勝てるのかを常に考え、大学2年時には全日本学生選手権(インカレ)優勝、大学3年時には全日本選抜選手権3位などの結果を残した。最終年には志願して主将に就任。理想とした「結果を出せるキャプテン」には届かなかったが、チームに対する貢献は誰もが認めるものであった。試行錯誤し続けた深田の競技人生に迫る。
格闘技を見ることが好きだった両親の影響と、古代オリンピックから続くという伝統に引かれ、4歳からレスリングを始めた深田。着々と実力を付け、中学時代に全国3位になると、高校は強豪である日体大柏高に進学した。大学は「早稲田しかない」と勉強に励み、自己推薦入試で早大に合格。レスリング部の同期には、同じ高校出身の山倉孝介(スポ=千葉・日体大柏)と片岡梨乃(社=千葉・日体大柏)をはじめ、トップアスリート選抜入試で入部した藤田颯(スポ=埼玉・花咲徳栄)など世代を代表する選手が揃っており、「自分が一番頑張らないといけない」と深田は感じていた。
4年時の早慶戦後、同期の仲間と集合写真に納まる深田(写真後列中央)
期待を胸に入学したが、新型コロナウイルスが猛威を振るう。2カ月ほど練習ができない期間が続き、大会も延期に延期を重ねた。やっとの出場機会となった1年時の東日本学生選手権秋季新人戦で優勝を果たすと、結果を出してアピールできたことに安堵(あんど)したという。
2年時には、春に行われる予定だったJOCジュニアオリンピックカップと東日本学生リーグ戦が中止に。ケガも重なったことで深田は目標を見失いかけた。マットに上がれない期間に何をするか。深田は体づくりに取り組み、階級を2つ上げて復帰戦となるインカレに出場。インカレ王者に輝くと、その後の全日本大学選手権では幼い頃からのライバル・佐藤匡記(山梨学院大)を倒して3位に入るなど、大きく飛躍を遂げた。
2年間の結果を受け、自分の中では強くなっているという感覚で臨んだ3年目。しかし、監督の交代やメンタル面などが原因で、結果が振るわなかった。「このままではまずい」と感じた深田は、大学日本一のチームである日体大に出稽古に行くことを決意。その結果、全日本選抜選手権で3位入賞、U23世界選手権出場など、再起の兆しを見せた。
3年時の全日本大学選手権で決勝を戦う深田
「僕がやるしかない」。新体制を決める際、深田は副将になる構想だった。しかし「中途半端なポジションはやりたくない」という思いから主将になることを志願し、話し合いの末に主将に就任。主将となった深田が理想としたチーム像は「学生主体」だった。「早稲田らしさ」とは何だろうか考えた先に見つけた答えである。学生が考えたことを尊重し、意見を積極的に取り入れる。また、部員から相談を受けた際には前向きなアドバイスを送り、みんながやりやすいような環境を整えた。深田のそうした思いはしっかりと部員に届いており、「早稲田は一人一人が我が強くて個性豊かなチームなので、キャプテンがああやってまとめていたのは直接は言えないけれどすごいなと思います」(片岡)、「本当に4年生中心のチームというか、過ごしやすいチームでした」(北脇香、スポ2=山梨・韮崎工)などのように、多くの部員が感謝を口にする。
しかし、主将という重圧が深田を苦しめた。当初は「結果を出せるキャプテン」を目指していたが、成績が思うように付いてこなかったのだ。同期が日本一や学生王者に輝く一方で、トーナメントの序盤で姿を消すことが続いてしまった。自分の結果が芳しくなくても、主将としてできることは何かを考えた深田は、仲間の試合のセコンドを積極的に務めるようにした。他の大学、チームであれば監督やコーチがセコンドに付いてアドバイスを送ることが多いが、今年度の早大の場合は深田が務めることが多かった。もともと試合の分析力には自信があり、それを還元する方法を模索した末に導き出した解である。「自分の結果がだめでも、他のみんなが自分を頼ってくれて結果を出してくれたのはキャプテン冥利に尽きる」と充実感を漂わせた。
全日本選手権でセコンドを務める深田(写真左)
大学卒業と共にレスリングを引退する深田。卒業後はスポーツ報道に関連する仕事に就く予定だという。『考える』。強くなる方法を論理的に考え、主将としてはチームを良くする方法を考えた深田の大学4年間。フィールドが変わっても、レスリングで培った力を生かして活躍を見せてくれるだろう。
(記事・写真 齋藤汰朗)