ヴァンフォーレ甲府の黎明期(れいめいき)にあたる2002年、チームに入社したひとりの女性がいた。早大在学時に『早稲田スポーツ新聞会』にて学生記者として活動した、井尻真理子(平9人卒)である。「早スポ記者からJリーグへ」。異色の転身を遂げた…

 ヴァンフォーレ甲府の黎明期(れいめいき)にあたる2002年、チームに入社したひとりの女性がいた。早大在学時に『早稲田スポーツ新聞会』にて学生記者として活動した、井尻真理子(平9人卒)である。「早スポ記者からJリーグへ」。異色の転身を遂げた井尻に、サッカーチームのスタッフとしての仕事について語っていただいた。

「いま一生懸命やらないと、将来後悔する」


スポンサーへの営業活動を行う井尻氏

――2002年にヴァンフォーレに入社なさいます。どんなお仕事からスタートしたのですか

 2002年は、特に役割がなくて。いろんな仕事の補助をしていました。みんなから言われたことをやっていくかたちです。加えて私は、クラブサポーター数を増やそうと意欲に燃えていました。夕方の1時間だけは絶対に営業をしようと決めて、最低1時間は時間を作って、ポスターを持って会社を抜け出して、毎日営業をしていました。

――街中を練り歩くというスタイルですか

 そうです。甲府の駅前とか、色々な場所に出没しました。時間を見つけては、クラブサポーターの営業をしていました。「ザ・飛び込み営業!」です。本当は、知らないお店に飛び込むのは勇気がいるし、恥ずかしいんです。もともと控えめな性格なので。でも、ヴァンフォーレ甲府のためなら頑張れるんです。

――その行動に至るのは、クラブが経営的に苦しかったからなのか、クラブ愛に溢れていたのか、いかがですか

 ヴァンフォーレが潰れてしまうと思ったことと、いま一生懸命やらないと将来後悔すると思って。本当に小さなことかもしれませんが、それ(小口営業)に対して協力してくれる人もすごく多くて。なんとか応援してくれる人を増やそうと思ってやっていたことでした。

――ヴァンフォーレを応援してくれる人が、知ってくれている人がもっと増えて欲しい、という気持ちですね

 まさにその気持ちです。ヴァンフォーレのために、という気持ちです。私は自分のためには頑張れなくて。でも誰かのためにとか、ヴァンフォーレのためなら頑張れます。

「初めてJ1に上がったときの雰囲気に似ていた」


井尻氏が担当をした50周年記念ユニフォーム。写真中央は畑尾大翔(平25スポ卒=現ザスパクサツ群馬)

――入社して以降、どういった異動をチーム内で経験なさってきたのですか

 はじめは事業部でクラブサポーターを担当して、次の広報が2006、07年。そして2008年からはまた事業部に戻ってグッズ製作やヴァンくん、応援バスを担当しました。その部署には10年いて、2018年からは営業を担当しています。

――それぞれのお仕事で、やりがいはどのように違っていましたか

 例えば…、グッズ製作は面白かったです。ただ、担当が私ひとりだったので、その分プレッシャーは大きかったです。今シーズンのお話ですが、天皇杯を優勝したことで、今年のユニフォームは胸のエンブレムの上に星がつきます。その結果、人気が集まって購入できないサポーターさんが出てきてしまいました。今のグッズ担当者の気持ちはすごくわかって。新シーズンのユニフォームは、前年の7月に発注しなければならないですから。

 実は、私自身も同様の失敗を、2015年に発売した50周年のユニフォームでやってしまいました。予想外の売れ行きで、まさに同じような思いでした。「サポーターの皆様、本当にごめんなさい!」という申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

――井尻さんが製作したグッズで、何か印象的だったものはありますか

 ガチャガチャのフィギュアです。実はそのグッズを作ろうと言ってくれたのは、今Jリーグで審判員をやっている御厨(貴文、07から09年まで甲府に所属)選手でした。「選手のフィギュアを作ったら売れるで〜」みたいな感じで。ロットがひとりにつき千個だったので、約3万個は最低でも作る計算になります。でも、思い切って作ってみたら大好評でした。今でも、御厨審判のレフェリングでミスジャッジがあったりすると、ヴァンフォーレが点を入れられた時と同じくらい心が痛みます。

 また、当時はグッズショップに「ご意見箱」を設置して、サポーターさんにグッズのアイデアをいただいたりもしていました。

――現在まで担当してきたお仕事において、それぞれ大変なことも教えてください

 例えば広報だと…、今の選手はきちんと取材などにも対応して、というタイプの選手が多い印象です。当時は「俺はサッカー選手だから取材はちょっと…」というタイプの選手も多くて、そういった意味で大変な部分もありました。大木武監督(現ロアッソ熊本)にはすごく良くしていただいて。テレビのインタビューだとぶっきらぼうにも見えますが、どんな取材でも丁寧に応じてくださいました。

――広報部のあとは事業部のお仕事となりました

 ヴァンくんなどのマスコットが中心で、フォーレちゃんが誕生したのもこの頃でした。あとは応援バスも担当していました。ただ、応援バスに関して言えば、今回(22年天皇杯)がすごく大変でした。コロナでしばらく応援バスを出していなかったので、やり方を忘れてしまっていて(笑)。様々な方にご協力いただきながら、決勝の応援には22台のバスで向かうことができました。

――日頃の仕事に加えて、天皇杯関連の仕事もある状況はかなり多忙だったのではないですか

 (準々決勝の)福岡戦を終えたあとは…、毎日のように午前様でした。でもその時の雰囲気が、初めてJ1に上がった時の会社の雰囲気に似ていたんです。みんな苦しいんだけど、ちょっと明るいみたいな。勝てるという自信はなかったですが「なんかあの時の雰囲気と似ているよね」と、当時を知る社員の人たちと話したりもしていました。

――応援バスの企画を行うために、かつて旅行に関する免許も取得なさったと伺いました。それはいつ頃のお話ですか

 もう10年くらい前の話です。ヴァンフォーレで応援バスをするために、私が旅行業の免許を取ったんです。その免許にも国内のみのものと、海外にも対応した『総合』と呼ばれるものがあって。「ヴァンフォーレなら海外はいらないじゃん」って言われていたのですが、いつかヴァンフォーレがACLに行くかもしれないから総合取っておこうと言い張って。総合の免許も取得しました。

――では、2023シーズンは中国や韓国に行く応援ツアーが企画されるかもしれないですね

私、海外ほとんど行ったことないので、私が添乗したら危険です(笑)。まさか本当に、ヴァンフォーレ甲府がACLにいけるなんて、感慨深いです。

――ACL出場に際して、営業やスポンサーさんの観点からの変化はありますか

 ACLに出るのにはすごくお金がかかるんです。大きく増額してくださったスポンサー様もいますし、スポンサーさんがスポンサーさんを紹介してくださったり、サポーターさんにご紹介いただいたりとか。シーズンシートやヴァンクラブ(ファンクラブ会員)も増えています。私達も必死だけど、サポーターもスポンサーもヴァンフォーレのために同じ気持ちで必死になってくれています。ありがたいです。

「人生において、無駄な経験はない」


ヴァンフォーレ甲府の公式マスコット『ヴァンくん』

――08年にヴァンくんを受け持った時は、どんな思いで取り組もうと考えていましたか

 『マスコット総選挙』というものがあるじゃないですか。最初の年は2位だったのですが、どうしても1位が取りたくて。中間発表では1位は取れたことがあるのですが…。だからこそ、マスコット総選挙の最後の年に、ヴァンフォーレとしてスーパーカップに出場できたことが本当にうれしいです。

――ヴァンくんとの思い出を教えてください

 ヴァンくんとの思い出は本当にたくさんあります。例えば…、ヴァンくんがAKBのヘビーローテーションを歌うんですけど、マイクスタンドは置いていなくて、代わりにほうきなどを使うというボケがありました。でも、そのリハーサルを私は別用で見られていなくて。本番前に、ミスでマイクスタンドが置いてないのだと思い、マイクスタンドを準備してしまって、ネタをつぶしてしまいました(笑)。

 他にも、ヴァンくんが隠し芸でテーブルクロス引きをするということで、一生懸命練習していたことがありました。でも、本番で私が傾いた机を用意してしまい、ヴァンくんは大失敗! 『敵は味方にあり』と言われていました(笑)。

――09年、フォーレちゃん誕生の際のエピソードはありますか

 フォーレちゃんが誕生した時は、編集プロダクションの時の経験がいきました。キャラクターの細部の色の指定などの仕事も、当時にやっていたためです。他にも、ヴァンフォーレの紙芝居を作る際にも、編集プロダクション時代に絵を描いてやりとりをしていた経験がいきました。

 2匹の試合やイベントに向けての努力はハンパないです。毎試合前に行っているマスコットショーだけでも、台本作成、踊りの練習、ネタ合わせ、衣裳作り・・・。2匹から学ぶことが多かったです。

――ヴァンフォーレでのお仕事は、本当に多岐に渡りますね

 そうですね。2013年、ヴァンフォーレにイルファン選手(元インドネシア代表)が加入した時は、グッズの担当でした。そこで、佐久間さんから「インドネシアにグッズを売ってほしい」と言われて。イルファン選手のグッズを作って、インドネシアで売ることにも取り組みました。そういったタスクをもらえると、その時は私にはハードルが高くて「えっ」と思いましたが、振り返ればいいチャンスをいただいていたと感謝しています。

 編集プロダクションの経験や早スポでの経験なども含めて、その時は何かに直接関係があるわけではなくとも、人生において無駄な経験はないなと思います。私もこれまで遠回りばかりですが、全てが今にいきているなと思っています。

――振り返れば、大怪我がなければ山梨に戻ってくることもなかったわけですよね

 本当にそうです。怪我の功名、ではないですが、全ての経験が今につながっていると感じています。山梨に戻ってからも、落ち込むこともありましたが、ヴァンフォーレの仕事は次から次にやってくるので一心不乱に仕事ができましたし、ヴァンフォーレを応援してくださるサポーターさんが沢山いて。ヴァンフォーレに就職して良かったと思いました。

「練習着を着てパレードをしよう」


天皇杯優勝に際した記念パレードは、練習着を着用して行われた

――免許のお話では、井尻さんはヴァンフォーレに入ってから保育士の免許も取得したと伺いました。詳しく聞かせてください

 あの時はヴァンくん体操で保育園を回らせていただいていて。ヴァンフォーレ甲府として行くときに、先生達に「ヴァンフォーレに任せて安心」と思ってもらえるように、と考えて取得しました。

――ヴァンくん体操はどういった流れで誕生したのですか

 ヴァンくん体操は、佐久間さんのアイデアです。子供たちがニコニコ体操できるものがあればいいな、という思いだったようです。作詞・作曲・振付は藤本チフミさん、歌と編曲は神部冬馬さん。ご厚意に甘えてボランティアで作っていただきました。ヴァンフォーレは、人にも恵まれているんです。

――先述のイルファン選手の加入なども、近年はタイなど東南アジア出身で活躍する選手がJリーグで増えただけに、佐久間さんには先見の明がありました

 佐久間さんはやはりアイデアや、やろうと思っていることが先をいっていると感じます。そして、ご自身も会社のこと、チームのこと、地域のこと、色々と全力でされていますが、一社員への協力も惜しまないです。私が甲府市男女共同参画推進委員長に就任することが決まった際も、会社に迷惑がかかるので反対されてしまうかと思いましたが、「地域のためになる」と勧めていただきました。来月に行う甲府市男女共同参画フォーラムには、佐久間さんにWEリーグの高田春奈チェアを呼んでいただきました。3月11日の開催です。ちょうどリーグ戦と日程が被ってしまって残念ですが、(言い訳をすると、フォーラムは昨年11月に開催日が決まっていました…。)こうした活動もヴァンフォーレの地域密着の大切な取り組みだと考えています。

――佐久間さんの視野の広さに関して、何か加えてエピソードはありますか

 佐久間さんはまず社長就任の挨拶時に「社長」と呼ばず「さん」付けするようにという言葉がありました。人に対しても出来事に対しても、何事に関してもフェアな方です。色々なことをよく見ていて、成果があったことや、頑張ったことを会議内で事例を挙げて褒めてくれます。社員、選手達のやる気を出させるのが上手です。

 また、優勝や昇格をした時は例年、記念Tシャツを着て甲府駅前周辺でパレードをします。ところが、天皇杯を優勝した昨季は「ユニフォームはたくさんメディアに露出したけど、練習着はあまり見せる機会がなかったから、練習着を着てパレードしよう」と佐久間さんがおっしゃって。選手は練習着を着用してパレードに参加しました。すると、パレードの光景を見た練習着スポンサーがすごく喜んでくれて。そういった考え方が大切なのだ、と勉強になりました。

――先日、チームを存続の危機にあった時代から支えた海野一幸代表理事と輿水順雄理事の退任が発表になりました。お2人は井尻さんにとってどんな方でしたか

 学ぶところしかないです。海野さんにしても輿水さんにしても、誰よりも率先して動きます。チームへの愛情も人一倍です。背中を見て学ぶことが多かったです。どんなに頑張ってもあのお2人は追いつくことができない、偉大な方々です。20年来一緒にヴァンフォーレのためにと一緒に苦楽を共にしてきたので、寂しいですね。

〜後編に続く〜

(取材、編集 橋口遼太郎 写真提供 ヴァンフォーレ甲府)

◆井尻真理子(いじり・まりこ)

1997(平9)年人間科学部卒。山梨英和高校を卒業後、当時の早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。早大在学時は早稲田スポーツ新聞会に所属し、学生記者として活動。その後、社会人経験を経て、2002年より株式会社ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブに入社。