サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、「地球の裏側で…」。

■「消えた」世界最大の航空会社

「パンナム」などという航空会社の名前さえ、今は知らない人が多いに違いない。1927年に設立され、フロリダのキーウェストとキューバのハバナを結ぶ路線からスタート。「パン」は「すべて」を意味し、「汎」という文字が当てられるギリシャ語由来の言葉で、「全アメリカ」は、南北アメリカ大陸をカバーすることを目指した名称だった。

 アメリカ国内の路線には興味を示さず、南米へと路線を広げた後、1930年代には大西洋をまたぐヨーロッパ路線、さらには太平洋を横断するアジア路線と世界に向かって翼を広げ、第二次大戦後はボーイング707や747などジェット旅客機の開発にまで関わった。毎日、東回りと西回りの2本の「世界一周便」を出していたことでも、同時の「パンナム」の威勢がわかる。現在も世界の一流ホテルチェーンのひとつである「インターコンチネンタル」は、「パンナム」のホテル部門だった。

 1976年には、ボーイング747SPという長距離機を就航させ、東京(羽田)とニューヨーク間約1万6000キロを世界で初めて無着陸で飛び、毎日、運行するようになる。私が南米に初めて行った頃は、間違いなく世界で最大の航空会社だった。ただ、おそらく、この頃がこの航空会社の最盛期だったのだろう。1980年代に入ると経営の失敗やテロによる爆破事件などで急速に地位を落とし、1991年には経営破綻して、その歴史の幕を閉じた。

■JFK空港着は出発の「45分前」

 ともかく、1977年5月27日午後6時45分、私を乗せたパンナムの800便は羽田空港の滑走路を疾走し始めた。ちなみに、成田空港の開港は翌1978年のことで、当時は羽田が東京の唯一の玄関口だった。東の空はすでに真っ暗だったが、西を眺めると、東京のビル群の向こうは真っ赤な夕焼けだった。その中に東京タワーが突き出ていた。

 ニューヨークのジョン・F・ケネディ(JFK)空港着は、同日の午後6時。なんと出発の「45分前」である。タイムマシンに乗った気分だった。飛行時間は12時間余りだが、ニューヨークは13時間日本から遅れている。

「JFK」はアメリカの玄関口のような空港なのでさぞ立派かと思ったが、東京便からの乗客が並ばされたのは野外で、バラックのような建物の前だった。別にニューヨークに用事があるわけではなく、ブエノスアイレスに向かう便に乗り換えるだけなのだが、まるで貨物船でリバプールからニューヨーク港に着いたアイルランド移民のように長時間並ばされ、入国審査を受けなければならなかった。

 ブエノスアイレスに向かうパンナムの201便は午後9時出発。この機はリオデジャネイロで2時間のトランジットタイムがあるが、そこで機材がボーイング747(ジャンボ=約350人乗り)からボーイング707(約100人乗り)に変わる。リオデジャネイロまでは、日本サッカーリーグのフジタ工業で活躍する小柄なFWセイハン比嘉さんといっしょになった。

 ブエノスアイレス到着は5月28日の午前11時30分。日本とアルゼンチンの時差は12時間。羽田を出てからほぼ29時間の旅だった。

■戒厳令の敷かれた「軍事政権の国」の夕闇へ 

 当時のアルゼンチンは、前年の1976年3月のクーデターで政権を握ったホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が支配する軍事政権の国。公式には「戒厳令」が敷かれたままで、危険な国と言われていたが、到着すると、町はとても落ち着いているように見えた。だが、東京はそろそろ夏の気配が濃くなる時期。秋が深まり、街路樹が色づき、人々がコートを着て歩いている姿は、「ああ、地球の裏側に来たんだな」という実感をわかせた。

 翌日にはアルゼンチン対ポーランドがある。取材申請などの手続きは、ベースボール・マガジン社が提携しているアメリカのAP通信の東京支局からブエノスアイレス支局に依頼してあり、ホテルに荷物を置くと、すぐにAPのオフィスに向かった。APの東京支局は銀座の朝日新聞ビルの中にあったが、ブエノスアイレスでもAPは、この国最大の新聞である『La Nacion』のビルに入っていた。

 東京支局から丁寧な依頼があったことで、支局長のビル・ニコルソン氏が笑顔で迎えてくれ、サッカー担当のエドゥアルド・ディバイア記者がいろいろと面倒を見てくれた。日本国内の試合なら、サッカー協会に電話しておけばいいのだが、アルゼンチンではそうはいかなかった。取材には、記者席の入場券とともに写真入りの記者証が必要なため、まず写真部に行って写真を撮り、それを持って、夕刻にアルゼンチン・サッカー協会に行った。

 なぜ夕刻なのか? それは、午後5時を過ぎないと、協会が動かないからだ。もちろん、日中もスタッフはいる。しかし、各部門の責任者はすべて「ボランティア」で、他に仕事をもっているから、重要な決済などができないのだ。会長を筆頭に、各部の責任者はすべて同じだった。社会的に地位のある人が協会の役員に就いているためだった。

 こうした形は南米ではごく普通で、後に取材に行くトヨタカップ出場クラブも、役員は夜にならなければクラブに来なかった。

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