サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「現サッカー日本代表監督が遠い目をして語るアジアカップ優勝へのワンシーン」。
■1992年のアジア大会
「そうですね。イラン戦のカズさんのゴールかな…」
カタールでのアジアカップの半ば、グループステージが終わったとき、日本サッカー協会が粋な計らいをしてくれた。「お茶を飲みながら、森保監督と話しませんか」と、日本のメディアに声をかけてくれたのだ。
このチャンスを逃してなるものかと、30人近い記者が集まったため、「ミニ記者会見」のようになってしまったが、「アジアカップでの最大の思い出は?」という質問が出たときに、森保監督はちょっと「遠い目」をしながら、ゆっくりとそう答えた。
森保監督は、選手として1大会、そして監督としては今回で2大会目、計3大会の「アジアカップ経験」がある。前回は苦しみながらも準決勝のイラン戦で最高の勝ち方を見せて、日本としては4回目の決勝進出に導いたのだが、決勝戦では、勢いに乗るカタールに1-3で敗れた。もしかすると、その決勝戦のことを話すのではないかと思ったのだが、「カズさんのゴール」という言葉を聞き、なるほどと思った。
AFCアジアカップの第10大会は、1992年に日本で開催された。といっても、会場は広島県内の4スタジアムだけ。広島広域公園の陸上競技場(ビッグアーチ)と、それに隣接する小さな「第一球技場」、そして広島の中心部から遠くない古く小さな広島スタジアム、さらに尾道市の県立びんご運動公園の陸上競技場の4会場だった。
実は、この大会は日本サッカー協会が主体的に招致活動をしたものではなかったのである。2年後の1994年に広島で開催されるアジア競技大会の「リハーサル大会」として、広島県が主導して誘致したものだった。
■アジアカップの成り立ち
アジアサッカー連盟(AFC)の結成後すぐに開始され、1956年に香港で第1回大会が行われて以後、4年に一度、アジアのチャンピオンを決めてきたAFCアジアカップ。しかし、日本サッカー協会は非常に消極的だった。目の前に迫った1964年の東京オリンピックに向けて日本代表を強化するために、目は世界に向けられていたからだ。韓国が最初の2大会で連覇するのを無視するかのように、日本のアジアカップ初エントリーは1968年の第4回イラン大会と、大幅に遅れた。
その予選は1967年夏、7月から8月にかけて、台北(チャイニーズ・タイペイ)で行われた。ところが同じ時期に長沼健監督率いる日本代表は、秋のメキシコ・オリンピック予選に備えて南米遠征を行うことになっていたので、平木隆三監督の下、「B代表」を結成して予選に参加した。韓国に2-1で勝つなど、猛暑のなか、3勝1分けと奮闘したのだが、チャイニーズ・タイペイに得失点差で先んじられ、決勝大会進出はならなかった。
2回目のエントリーは1976年、やはりイランでの大会である。このときには1975年6月に香港で行われた予選に長沼健監督率いる日本代表が出場した。エースの釜本邦茂が欠場のなか、若い攻撃陣は可能性を示したものの、準決勝で中国に敗れ、予選突破を逃した。
そして3回目のエントリーが1988年のカタール大会(アジアカップ決勝大会のカタール開催は、今回で3回目なのである)。しかし、代表チームではなく、山口芳忠監督が大学生中心の急造チームで予選に臨んだ。ところがこのチームが、マレーシアのクアラルンプールで行われた予選でクウェートに次いで2位となり、決勝大会のチケットをつかんでしまったのである。
■「その後」への胎動
慌てたのは日本サッカー協会である。カタールでの決勝大会は12月。日本サッカーリーグはオフになっているが、天皇杯がある時期である。「アジアの決勝大会なのだから、最強の代表を編成して送り込むべきだ」という意見、「日本で最も重要な天皇杯があるから無理だ」という意見、さらには、「予選を突破したのは山口監督のチームなのだから、決勝大会も彼らに出場の権利がある」という意見…。意見百出のなか、結局、本来の日本代表監督である横山謙三が指揮を執り、基本的に予選のときのチームで出場することになった。
「B代表」の扱いだったが、このチームにはDF井原正巳、DF堀池巧、FW中山雅史、FW高木琢也など、後に日本代表の中核として活躍する有望選手が多数いた。それでも、経験不足は否めなかった。初戦こそ優勝候補のイランに0-0と健闘したものの、その後は韓国に0-2、UAEに0-1、カタールに0-3と3連敗。1分け3敗、無得点でA組最下位という形で大会を終えたのである。
これが日本の「アジアカップ決勝大会デビュー」である。森保監督が選手として出場し、日本代表が大会初優勝を飾るのは、その次の大会、わずか4年後のことである。