25年ぶり、7度目のリーグ優勝を果たした広島カープ。正式には広島東洋カープだが、その名称に変わったのは1968年のこと…
25年ぶり、7度目のリーグ優勝を果たした広島カープ。正式には広島東洋カープだが、その名称に変わったのは1968年のこと。57年間にわたるカープ史上、球団のみならずチームにとっても、大きな変革のときを迎えた年である。
2リーグ分立の50年、広島県民・市民の球団として発足し、経営母体を持たなかったカープは、慢性的な財政難が問題だった。地元財界各社による相乗り経営で好転を図るも、負債は膨らむばかりで、球団経営を資金力のある東洋工業(現・マツダ)に一本化。同社社長の松田恒次をオーナー、息子の松田耕平をオーナー代理とし、広島東洋カープが誕生したのだった。
この68年、万年Bクラスの広島を3位に引き上げ、球団初のAクラス入りを実現した監督が根本陸夫である。

1975年に山本浩二、衣笠祥雄らの活躍で初優勝を果たした広島
根本はのちに西武、ダイエー(現・ソフトバンク)でも監督を務め、両球団でフロント入り。実質的なGM(ゼネラルマネージャー)として、長く低迷していた両チームの強化を果たした功績で知られる。強化のためには裏技も駆使する辣腕ぶりから"球界の寝業師"とも呼ばれたが、その原点は広島にあり、75年の初優勝の礎を築いた男と言われている。
とはいえ、現役時代の根本は近鉄の控え捕手で、出身は茨城。実績も乏しく、広島に縁もゆかりもない監督の就任は球団史上初だったが、なぜ、前例は覆されたのか。
近鉄では引退後にスカウト、マネージャー、コーチを務めた根本。66年限りで退団したあと、学生時代以来の恩師でプロ野球・近鉄の監督も務めた藤田省三から広島のコーチ就任の話が来た。
藤田はオーナーの松田恒次と接点があり、「選手を育てられるコーチ」を求められて根本を推薦。その人となりを松田が知っていたことで、67年、長谷川良平監督のもと、根本はヘッドコーチに就任した。
しかし同年の広島は最下位に沈み、長谷川監督は解任。根本も辞任を申し出たが、逆に監督に推されて昇格。オーナーの松田は「全試合、負けてもいいんだ。将来につながる強いチームを作ってくれ」と、41歳の新監督に期待を寄せた。マスコミも根本に注目し、いかにも仁侠映画に登場しそうな眼光鋭い風貌もあって"カープの若親分"と名付けた。
根本はまず補強に動き、阪神からベテラン強打者の山内一弘を獲得。毎日-大毎(現・ロッテ)時代に首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回という超大物も阪神では成績が下降気味だったが、前年に通算2000本安打を達成。万年Bクラスの"ぬるま湯"に浸かっていた広島の選手にとって、その野球に対する姿勢が格好の手本になると根本は考えた。実際、選手たちは山内を見てどう感じたのか。当時、入団4年目の若手だった衣笠祥雄はこう回想する。
「山内さんはキャンプでご自身の練習をやるだけでしたが、我々よりはるかに練習されていました。いいお手本、いい教材を目の前に置いていただいたと、今でも思います。我々からしたら、2000本安打も打っておられて、すべてのタイトルを獲られた大選手が『まだこんなに練習するんだ』というのは本当に驚きでした」
衣笠のような若い選手の意識を変えることが、根本の狙いだった。高額年俸の助っ人を獲る補強は「小手先の芸」と断じ、本当に強いチームを作るために先を見ていたのだ。
一方で根本は猛練習で意識改革を促しつつ、選手のモチベーションを高める配慮も忘れなかった。プロ初勝利をノーヒットノーランで飾りながら伸び悩んでいた外木場義郎(そとこば・よしろう)は、まさに気を配られたひとり。外木場が当時を振り返る。
「監督就任が発表されたあと、会社にいる根本さんに呼ばれたんです。普通、活躍してない選手が呼ばれたらね、いよいよトレードか、と思いますよ。それで行ってみたら、『まあ、お茶でも飲むか』って言われて、なんかおかしい。そしたら、『オレは来年、監督やるけれども、お前は一軍のピッチャーとして扱うから、そのつもりでしっかり頑張ってくれ』ということで、話はそれだけでした」
わざわざ会社に呼ばれて、面と向かって激励される。監督の熱意が伝わった外木場はあらためて練習に打ち込んだ。同じく投手の安仁屋宗八(あにや・そうはち)は、また別の形で気持ちを動かされた。安仁屋が言う。
「あのとき、僕と外木場はね、根本さんに500球、投げさせられた。1日に500球。キャンプだけじゃなく、オープン戦の間も。それだけ二人一緒に鍛えられたら、どうしても、相手のことは意識しますよね」
猛練習を課すなかで選手間の競争心も煽っていた。そうして68年のシーズンは安仁屋が23勝、外木場が21勝を挙げて完全試合も達成。野手では開幕から5番に抜擢された衣笠が、前年まで計3本塁打だったのに一気に21本塁打と大ブレイク。球団初のAクラス入りは、有意義な補強と現有戦力の底上げによって成し遂げられたものだった。
翌69年には大学出の山本浩二、水沼四郎が入団すると即戦力として機能させ、内野では三村敏之、外野では水谷実雄も出番を増やしていく。チーム成績が最下位になっても世代交代を推し進めた根本は、70年にはコーチ陣を刷新。基礎体力をつけた選手の技術を高めるべく、理論を学ばせた。
70年のオフからはアメリカの教育リーグに選手を派遣し、72年、2月下旬からの第二次キャンプをアリゾナ州ツーソンにあるインディアンスのキャンプ地で敢行。このとき、インディアンスのコーチで、75年に広島の監督になるジョー・ルーツに出会えたのはひとつの成果だった。
ルーツは根本とナインになにかと助言してくれた。が、初の海外キャンプゆえにまともな練習ができず、故障者も相次いで失敗に終わる。失敗が開幕からの成績不振につながり、6月半ば、根本は体調不良もあって休養、同年限りで広島を去った。
根本の退団後、73年は別当薫、74年には森永勝也に監督が交替。積極補強で戦力を整え、チームカラーを赤に変えたルーツも審判への抗議をめぐって球団と対立し、開幕間もない75年4月末に解任。あとを引き継いだコーチの古葉竹識がチームを初優勝に導いた。
そうした経緯を踏まえるとき、根本の存在は極めて見えにくい。しかしながら、外木場、山本、衣笠、三村、水谷、水沼という優勝メンバーは、すべて根本が生かした選手たちである。先を見た変革がなされて初めて、栄冠への礎が築かれたことは間違いない。
(=敬称略)
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