根本陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実連載第59回証言者・大田卓司(6) 1995年のシーズンオフ。ダイエー(現・…

根本陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第59回

証言者・大田卓司(6)

 1995年のシーズンオフ。ダイエー(現・ソフトバンク)の打撃コーチを退任した大田卓司は、球団に残ってスカウトになった。球団専務の根本陸夫に命令され、半ば脅されたような形での転身。そのくせ、辣腕スカウトでもあった根本から、仕事の手ほどきを受けることはなかった。大田が当時を振り返る。



現在は野球教室を中心に少年たちの指導を行なっている大田卓司

スカウトだからといって野球だけを見る必要はない

「根本さん、なんにも教えてくれない代わりに、おかしなこと言い出すんだ。『タクな、ママさんバレーとかあるだろ? ソフトボールとか、河川敷でやっとる子どもの野球あるだろ? そういうのを見るところから入っていいんだよ』って。このオッサン、なに言ってんのかなって思いましたよ(笑)。プロ野球の世界にずっといた人間が『なんでママさんバレー見にいかないといかんの?』って」

 野球以外にも視野を広げろ、という意味で根本が助言したのは大田にもわかっていた。それにしても「ママさんバレー」は行く気にもなれず、少年野球だけを見に行った。ちょうどその頃、球団代表の瀬戸山隆三(現・オリックス球団本部長)から自宅に電話がかかってきた。

「瀬戸山さんがね、『コーチの時より給料下がりますからね』って言う。『わかってますよ。それはしょうがないことですから』と言ったら、『じゃあ、ちょっと奥さんに替わってもらえますか?』って。嫁さんと年俸の交渉始めたんだけど、やり方が根本さんと同じ。なんでかというと、瀬戸山さんは根本さんの教え子みたいなもんだから」

 根本がダイエーの監督に就任し、専務と球団本部長を兼務した時のこと。瀬戸山は球団副本部長という立場で根本をサポートしていた。独特のやり方を目の当たりにする機会は多々あったようだ。

 こうして、関東地区担当スカウトとして始動した大田は、学閥もほとんどなかったなか、同僚の勧めもあって、まず東洋大を見に行くことになった。西武で一緒に戦った松沼兄弟が同大学出身だったことを思い出し、弟の松沼雅之に監督の高橋昭雄を紹介してもらった。

「高橋さん、オレを気に入ってくれて、初めて会ったその日に寿司屋ですよ(笑)。しかも縁っていうのは不思議なもんで、高橋さんの弟がオレと同学年で、大宮工高の二番手のピッチャー。昭和43(1968)年夏の甲子園でオレと対戦してたんだけど、その試合を見たっていうんだから。それからもう、高橋さんには可愛がってもらってね」

 自らを「社交性がなくて処世術も下手」と評する大田は、どんな世界においても、社交的で処世術が上手い人間が出世することが嫌だった。狭い世界で生きてきた自分にはスカウトなど絶対に務まらない、と思っていた。それでも、スカウトの仕事が軌道に乗ると、ひとりの人間との関係から世界が広がることを知った。そんなある日、久しぶりに会った根本から、半ば唐突にこう言われた。

「タクな、嫌いな人ほど、電話の一本でもかけてごらん。全然、違うぞ。『元気ですか?』でも、『元気でやってます』でも、なんでもいいじゃないか。電話一本、10円で済むんだから」

 いかに「オヤジ」と慕う根本の教えでも、大田にはできなかった。10円で3分話せる公衆電話を使う時代から携帯電話を使う時代に移り変わっても、性格上、無理だった。嫌いな人にも電話できる人間が出世するのだろう、と気づいたのはずっと後のことだった。

最近になって心に響いた根本陸夫の言葉

 では、根本は、嫌いな人にも電話できるような人間だったから、全国規模で広がる人脈を持てたのだろうか。大田によれば、それは違うという。あくまでも仕事のため、あえて電話をかけるようにしていただけで、素の性格は大田に似ているところがあった。つまり組織における出世など頭になく、むしろ、仕事には直接結びつかない人間関係を大事にした。そのため根本は西武時代に一度、大田にボヤいたことがった。

「タク、オレはね、日本シリーズのたびに出費がかさむんだよ」
「なんでですか?」
「いやぁ、キップ代がな、300万円かかるんだよな」
「そんなもん、根本さん、招待するのも仕事のうちじゃないですか。球団の経費から出しゃいいじゃないですか。だいたい管理部長なんだから」
「いや、オレはそれをしない。全部、自前なんだ」

 公私をきっちりと区別し、球団には関係なく、プロ野球最高の試合に数多くの関係者や知人を招待する。そのために自腹を切る金額が桁違いだったことに驚かされるが、この努力が根本の財産になったのみならず、人脈の一端になったはず、と大田は推測する。

「すごかったね、公私でけじめつけるのが。10円で電話するのが"公"なら、招待するのは"私"なんだね。だから、この人、違うんだって思った。普通じゃないんだなって」

 そんな根本が、ダイエーの球団社長に就任した1999年の1月。スカウト会議が終わった後、大田は根本の部屋に呼ばれ、ふたりで話した。またもや半ば唐突に、こんなことを言われた。

「タク、人間ってのはなあ、本当のことをずばり言われると、いちばん傷つくんだよ」

 誰にでも怖いものなしでストレートに言い放ち、本当のことを言ってなにが悪い、と思っていた大田にとって、この言葉は身にしみた。まして大田自身も、本当のことを言われたら傷つく、と気づかされた。根本はさらに続けて言った。

「人間、本当のことを言うと角が立つ。でも、その角は削らなくてもいいんだよ。なあ、タク、名刺でも角があるだろ? その角をね、丸く広げていきゃあいいんだよ。削ると小さくなってしまうから。要は、自分の性格はそのまま残していいんだから。それをね、広げていきゃあいいんだよ。そうしたら角がなくなって、丸くなるじゃないか」

 言葉の意味としては理解できたが、どう実践していけばいいのか、大田にはわからなかった。そして結果的に、根本とはこのときが最後になった。3カ月後、4月30日に根本が急逝したのだ。

「あの日、オレ、家で寝ていてね、ガーンと頭をハンマーで叩かれたような感覚があった。なんか、わけわからないけど。そうしたら、後々考えたら、オヤジはその時間に亡くなってる。これにはびっくりしたね。それでオヤジのご遺体が博多から帰ってきて、家まで行ったんだけど、そのときはオヤジの姿見ても涙が出ない。ところがね、葬儀の時、オレ、受付をやってたんだけど、長男の謝辞を聞いて涙が止まらなくなった。声上げて泣いていました」

 大田はダイエーを退団した後、2004年に台湾プロ野球・La Newベアーズの監督、07年には韓国プロ野球・SKワイバーンズの打撃コーチを歴任。08年からは3年間、ヤクルトの打撃コーチを務めたのだが、そのときに初めて、「角を削らずに丸く広げればいい」という根本の教えを実践できた。

「性格は変えようがないけど、やっとわかった。本当のことを言わない方がいいときはあるんだって、心の底から思えた。つい最近の話ですよ。だから、言われた言葉はずっとオレの頭ん中に残ってるし......。あらためてオヤジには、感謝の気持ちしかありません」

(=敬称略)

【人物紹介】

根本陸夫...1926年11月20日、茨城県生まれ。52年に近鉄に入団し、57年に現役を引退。引退後は同球団のスカウト、コーチとして活躍し、68年には広島の監督を務める。監督就任1年目に球団初のAクラス入りを果たすが、72年に成績不振により退団。その後、クラウンライター(のちの西武)、ダイエー(現・ソフトバンク)で監督、そして事実上のGMとしてチームを強化。ドラフトやトレードで辣腕をふるい、「球界の寝業師」の異名をとった。1999年4月30日、心筋梗塞により72歳で死去した。

大田卓司...1951年3月1日、大分県生まれ。津久見高から69年ドラフト9位で西鉄(現・西武)に入団。76年に23本塁打を放ち、指名打者でのベストナインに選出される。その後もDH、代打の切り札として活躍し、83年の巨人との日本シリーズではMVPを獲得した。86年で現役を引退。その後はダイエー(現・ソフトバンク)、ヤクルトのほかに、台湾や韓国プロ野球でもコーチを務めた。通算成績は923安打、171本塁打、564打点。

松沼雅之...1956年7月24日、東京都生まれ。兄・博久と同じく取手二高から東洋大に進学。76年秋のリーグ戦で8勝をマークし、チームの初優勝に貢献。その後もエースとして活躍し、リーグ戦通算39勝を挙げた。78年にドラフト外で西武に入団。79年はルーキーながら4勝をマークすると、翌年から5年連続して2ケタ勝利を挙げた。89年限りで現役を引退。通算成績は241試合に登板し、69勝51敗12セーブ。

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