ローズ氏は8年間で横浜でプレー後、2年のブランクを経てロッテに入団した ベイスターズ史上最強助っ人として今でもファンから愛されるロバート・ローズ氏(九州独立リーグ・火の国サラマンダーズ監督)は1993年から8年間、横浜(現DeNA)でプレー…
ローズ氏は8年間で横浜でプレー後、2年のブランクを経てロッテに入団した
ベイスターズ史上最強助っ人として今でもファンから愛されるロバート・ローズ氏(九州独立リーグ・火の国サラマンダーズ監督)は1993年から8年間、横浜(現DeNA)でプレー。「つなぐ4番」として1998年の日本一に貢献するなど、通算打率.325、167本塁打、808打点の成績を残して2000年に帰国した。その後、米で2年間の“空白時間”を過ごし、2002年オフにロッテと契約したが、2003年の春季キャンプ中にまさかの電撃退団。来日からわずか28日で帰国した真相を、ローズ氏が語った。【取材協力・一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会】
横浜退団後はどの球団にも所属することなく、練習を継続していた中、2002年オフにロッテからのオファーが届いた。当時のロッテは1996年から7年連続Bクラスに低迷。最強助っ人の日本球界復帰は大きな話題となり、注目された。しかし……。
「野球のスピードについていけなかったんです。以前のようなプレーはできないと感じてしまった。このままではチームに迷惑をかけてしまうと思った。もっといい選手を連れてきた方がいいと思い、帰国を決めました」
野球選手にとって2年のブランクは大きく、すぐに“現実”を突きつけられた。それまで捕れていた打球が捕れない。届いていた打球に届かない――。守備での衰えを痛感した。「パ・リーグにはDHがありましたが、私はグラウンドに立って守備でも貢献したいと考えるタイプでした」。春季キャンプ中の2月19日に退団し、帰国した。
「自分の守備で失点に繋がるようなことは我慢できなかった」
守備には特別な思いがあった。本職は遊撃手ながら横浜での1年目に石井琢朗、進藤達哉らの守備を見て「自分のレベルを上げないといけない」と痛感。二塁手として、山下大輔内野守備コーチと特訓の日々を過ごした。「メジャーでもセカンドをやったことはあったけど、ランナーが迫ってくるようでとても怖かった」。
山下コーチとの練習で印象に残っているのは内野フライ。「ノックで、とても高い内野フライを何本も打ってもらいました。繰り返し、繰り返し。松井(巨人)のフライは空に消えちゃうように、すごく高い当たりだからね。毎日、鍛えてもらいました」と懐かしんだ。
だからこそ、日本一に輝いた1998年に二塁手として受賞したゴールデン・グラブ賞は「私の誇りです。ものすごく努力しましたから。守備でも自分の力を証明したかった。チームメートの影響を受けたから獲れたと思っています」と笑みを浮かべた。
一方でロッテ入団時の打撃はどう感じていたのだろうか。「打つ方ではスピードについていけないと感じることはなかった。バッティングが自分の“足かせ”になるとは感じていませんでした」。だからこそ、退団は時期尚早とも思いたくなるが、ローズ氏は語る。
「自分の守備で失点に繋がるようなことは我慢できなかった。自分が打点をあげたとしても、自分の守備で失点してしまったら意味がない。そういう野球は嫌でした。一面的、打撃でしか貢献できないような選手にはなりたくなかったんです」。打力重視で、守備のミスをある程度容認してもらえるような外国人選手にはなりたくなかった。打って、守って、勝利に貢献する。最強助っ人が示した矜持だった。(湯浅大 / Dai Yuasa)