新春スペシャル対談村井満×ジーコ(中編)「異端のチェアマン」が「神様」と親友になったキッカケ 前Jリーグチェアマンで、現…

新春スペシャル対談
村井満×ジーコ(中編)

「異端のチェアマン」が「神様」と親友になったキッカケ

 前Jリーグチェアマンで、現在は日本バドミントン協会会長を務める村井満氏。そして、元ブラジル代表として30年前のJリーグ開幕を大いに盛り上げ、日本代表監督退任後も毎年のように来日しているジーコ氏。まったく出自の異なる両者だが、それぞれのホームである浦和とリオデジャネイロで酒を酌み交わすほどの親友である。

 昨年12月5日に発売された宇都宮徹壱・著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)は、8年間に及んだ村井チェアマン時代のJリーグを丹念に振り返りながら、これまで明らかになっていなかった新事実を掘り起こしていく内容となっている。そして本書が、Jリーグ開幕から30周年を迎えた2023年に発売されたことを受けて、村井&ジーコ両氏による対談企画が実現した。

 今回、この豪華な対談を3回にわたってお届けする。本稿はその第2回。ジーコ氏が来日した1991年当時の思い出、住友金属サッカー部から鹿島アントラーズに変わっていく間での知られざるストーリー、そしてJリーグの社会連携のヒントとなったジーコ氏のチャリティ活動について、それぞれの視点から語っていただいた。

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「異端のチェアマン」村井満氏

 photo by Koreeda Ukyo

【鹿島が浦和の2倍のタイトルを獲得している理由とは?】

── 今から30年前に開幕したJリーグには、ジーコさんのほかにもゲイリー・リネカー(名古屋グランパスエイト)やピエール・リトバルスキー(ジェフユナイテッド市原)など、多くのワールドクラスの選手たちがジョインしていました。ただしジーコさんの場合、その2年前に前身の住友金属に加入して、時間をかけて鹿島アントラーズをプロの集団に変えていった。そこが、ほかの外国籍選手との一番の違いでしたよね。

村井 そうなんだよね。住金時代のジーコさんの映像を、今でもYouTubeで見ることができるんだけど、当時は練習場も土のグラウンドで、選手も社員選手でプロとは程遠い状況。そんななかでジーコさんは、環境改善や選手の意識改革を地道に指導していました。

 それは、いちクラブの改革という話ではなくて、人口4万人くらいの鹿島町(現・鹿嶋市)に1万5000人収容の専用スタジアムができて、鹿行(ろっこう/鹿嶋市を含む茨城県南東部の地域名)地域にサッカー文化が定着していった。これはすごいことですよ。

── そういえば鹿島のクラブハウスには、ジーコさんが選手に喝を入れるためにメッセージを書かれたホワイトボードが、今でも大切に保管されているそうですね。

村井 それは私も見ています。そういったものを含めての「ジーコイズム」なんでしょうね。私は浦和に住んでいて、Jリーグと関わる前は浦和レッズを応援していました。人気面では鹿島と双璧だし、平均入場者数は常にトップであり、母体となる企業もしっかりしています。

 けれどもタイトルの数では、大きな差がありました。鹿島はJ1とリーグカップと天皇杯、そしてACLを合わせて20も獲得しているけれど、浦和はその半分しかない。同じJリーグを代表する強豪でも「この差は何だろう?」というのは、ずっと考えていたことでしたね。

ジーコ 鹿島アントラーズも、最初は小さなクラブからのスタートでした。それがJリーグで最多のタイトルを獲得できたことで、J1だけでなくJ2やJ3のクラブにも、ある種の希望を与えることができたのではないかと思います。

 どんなに小さなクラブでも、地域とパートナー企業とファンとが協力して弛まぬ努力を続ければ、やがては成功したクラブになることができる。そうしたことを、鹿島は証明してみせたのではないかと思っています。

村井 単年度で見ると、いい選手が揃っていたとか、優秀な監督が就任したとか、そうした好条件が重なってタイトルを獲得することもあると思うんです。けれども、30年という長いスパンで考えた時、鹿島と浦和のタイトル数の差が意味するものは何か? あえて言葉にするなら、やっぱり「クラブの総合力の差」なんでしょうね。

── それこそ「ジーコイズム」とか「ジーコスピリッツ」ではないでしょうか?

村井 今もクラブハウスに残っている、ホワイトボードがすべてを表しているように感じますよね。それぐらいジーコさんは、鹿島アントラーズというクラブに多くのものを残し、ライバルクラブもまた「打倒・鹿島」に燃える。そのことで、Jリーグ全体にもいい影響を与えてきたんだと思います。

【もしも本田技研が埼玉県でプロ化していたら?】

── ジーコさんが1991年に来日した時、住友金属はJSL(日本サッカーリーグ)2部でした。

ジーコ あの当時、Jリーグ入りが決まっていたクラブは、どんどん選手もアマチュアからプロに切り替わっていた時期でした。住友金属にもプロはいましたが、社員選手も半分近くいて、彼らは練習に加わるのは仕事が終わってから。当時、プロ選手と社員選手との間には、温度差がありました。プロを中心としたチームに切り替えたのは、後期リーグに入ってからでしたね。

── 大野俊三、賀谷英司、石井正忠、真中靖夫といった黎明期の選手たちも、もともとは社員選手からプロになっていきましたよね?

ジーコ そうです。当時はまだ、外国籍選手はふたりしか出場できなかったので、私とミルトンがフル稼働していたんです。私は38歳から39歳だったんですが、まだまだ動けたので22試合で21ゴールを決めて得点王にもなりました。

 ただし、中盤の選手がどうしても足りなくて、そこは社員選手の力を借りるしかなかった。そのために会社と掛け合って、彼らがトレーニングに集中できるように仕事の負担も減らしてもらいました。

村井 黒崎久志や長谷川祥之や本田泰人といった、本田技研でプレーしていた選手たちが移籍してくるのも、この頃ですよね?

ジーコ 鹿島の初代監督になる宮本征勝さんもそうですね。本田技研がJリーグには参加しないということで、本田技研のプロ志向の選手たちが加わったのです。私はブラジルからアルシンドとサントスを連れてきました。

 こうした選手たちが、1993年ファーストステージ優勝の原動力になったわけですが、もちろん即席でできたチームではありません。Jリーグ参入を目指して、私がJSL時代から作り上げてきたチームだったんです。

── これって、わりと見落とされている歴史ですよね。

村井 そうだよね。本田技研の話でいうと、埼玉県の狭山市に工場があったから、埼玉に移転してJクラブになるという話もあったんですよ。

── それも開幕前夜の秘話ですよね。「浦和ホンダウィンズ」という名前で、Jリーグに加盟する具体的な話もありましたから。結局、その話は立ち消えになりましたが、実現していたら今の浦和レッズはなかったわけですよ。

村井 本田が浦和に来るんだと思っていたのに、主要メンバーがごっそり鹿島に行って、ファーストステージで優勝するわけじゃないですか。一方、私が応援していた浦和は、しばらく最下位が定位置という時代が続きました。そうした、さまざまな偶然が重なって、今のJリーグにつながっている。とても面白い話ですよね。

【ジーコがファンサービスとチャリティを重視する理由】

── Jリーグでは地域密着の進化形として、25周年を迎えた2018年に「社会連携(シャレン!)」を打ち出していきます。シャレン!に重要なヒントを与えたのが、先ほどのお話にあった、ジーコさんのチャリティマッチだったんですよね?

村井 それこそ浦和の中華料理屋で、ジーコさんと食事をしていた時にチャリティマッチのことを知ったんです。それが2017年の話で、翌年のJリーグ25周年に向けて「地域密着という理念をJリーグは実現できているんだろうか」という自問自答が私のなかにありました。その答えを見つけようと、その年の12月にリオでのチャリティマッチを弾丸旅行で見に行ったんです。

── ジーコさんのチャリティマッチがスタートしたのは2004年から。参加者は1キログラムの食材をチケット代わりに持ち込んで、それらを貧しい家庭に配る形で始まったそうです。最初は小規模で始まったのが、今ではワールドカップ決勝が行なわれたマラカナン・スタジアムで開催されるまでになったんですよね?

村井 そうです。実際に現地を訪れてみると、やっぱり地域とスポーツクラブとの関係性が、非常に密接なんですよ。

 それ以上に驚いたのが、ジーコさんが90分間プレーしたあとも、スタジアムをぐるりと一周しながらファンサービスをしていたこと。「あれだけの国民的な英雄が、そこまでやるのか!」ということが、私にとっては衝撃的でした。あの時の強烈な体験が、その後のシャレン!につながっていくことになります。

ジーコ クラブや選手といった存在を、常に身近に感じてもらうことは大事なことだと思います。経済的に困っている人たちに対してもそうですし、日本だと自然災害によって被災した人たちもですよね。私が日本代表の監督をしていた2004年、新潟で大きな地震があった時には、日本代表によるチャリティマッチを提案しました(同年12月4日にジーコジャパンドリームチームvsアルビレックス新潟として実現)。

── 新潟でのチャリティマッチは、私も現地で取材したのでよく覚えています。こういう試合はゴールがたくさん入るものですが、両チームとも真剣勝負にこだわったせいか、スコアレスドローに終わりましたね(笑)。

ジーコ 2011年の東日本大震災でも、私たちは自ら被災地に足を運んで現地の人たちを励ましました。それはとても大事なことだと思うし、義務感でやっているわけではない。ただ「やりたいからやっている」だけなんですよ(笑)。

村井 シャペコエンセに向かう時の話もそうだし、リオでのチャリティマッチもそう。ジーコさんのなかでは、ファンへのサービスや困っている人たちを助けることが、一貫しているんですよね。損得なんかは一切考えず、それが自分の役割だから、そうしているだけなんです。そこにプロ選手としての姿勢を感じるし、我々も大いに学ばせていただきました。

(後編につづく)

鹿島アントラーズの低迷を分析&日本代表に期待すること

【profile】
村井満(むらい・みつる)
1959年8月2日生まれ、埼玉県川越市出身。日本リクルートセンターに入社後、執行役員、リクルートエイブリック(現・リクルートエージェント)代表取締役社長、香港法人社長を経て2013年退任。日本プロサッカーリーグ理事を経て2014年より第5代Jリーグチェアマンに就任。4期8年にわたりチェアマンを務め、2022年3月退任。2023年6月より日本バドミントン協会会長。浦和レッズの熱心なサポーターとしても知られる。

ジーコ
1953年3月3日生まれ、ブラジル・リオデジャネイロ出身。1971年からフラメンゴでプレーし、1983年にウディネーゼへ移籍。契約問題で2年後に再びフラメンゴに戻り、1989年に一度は引退するも、1991年に住友金属(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けて1994年までプレー。ブラジル代表として72試合52得点を記録し、ワールドカップは1978年・1982年・1986年大会に出場。2002年から2006年まで日本代表監督を務める。