12月10日、東京・国立競技場で行なわれた陸上の日本選手権男子10000mは、終始レースを役者たちが引っ張り、優勝した塩尻和也(富士通)を筆頭に上位3名が従来の日本記録を超えるハイレベルなレースとなった。上位争いを展開したのは箱根駅伝で活躍…
12月10日、東京・国立競技場で行なわれた陸上の日本選手権男子10000mは、終始レースを役者たちが引っ張り、優勝した塩尻和也(富士通)を筆頭に上位3名が従来の日本記録を超えるハイレベルなレースとなった。上位争いを展開したのは箱根駅伝で活躍した選手たちが多かったが、そこには国内の争いではなく、真の世界レベルを意識した戦いがあった。
トラック、ロード問わず成長を遂げ続けてきた塩尻
【世界レベルに近づいた塩尻の27分09秒80】
五輪選考レースで再び、男子10000mの日本記録が更新された。塩尻和也(富士通)が日本選手権で27分09秒80と、相澤晃(旭化成)が2020年12月の日本選手権(大阪・ヤンマースタジアム長居)でマークした27分18秒75を約9秒更新した。
塩尻のそれまでの自己記録は27分45秒18で、自身も「よく出たな」という感想だったが、その一方で日本の長距離界全体に「海外も国内も記録水準が上がっていて、先日も佐藤圭汰(駒澤大2年)選手が27分28秒50を出しました。日本記録はそれほど難しくない、という雰囲気もあった」という。
パリ五輪の参加標準記録(以下、標準記録)の27分00秒00は突破できなかったため、日本陸連が定めたパリ五輪代表内定の基準(優勝+標準記録突破)は満たせなかったが、だからといって世界トップレベルから遠いとは言い切れない。日本陸連の高岡寿成長距離マラソン強化シニアディレクター(SD)はレース後、次のように語った。
「パリ五輪の標準記録は今年のブダペスト世界陸上の27分10秒00から10秒上がっていますから、簡単には突破できないと思っていました。しかし今回の記録は、(気象やレース展開など)コンディションに恵まれたとはいえ、今季世界9番のタイムになります。そこは選手も私たちも、自信を持っていい部分です」
高岡SDのコメントにあるように、塩尻の記録は2023年8月の世界陸上ブダペスト大会なら同大会の標準記録を破っていた。世界リスト(記録順位)で見れば2021年なら11位相当、2022年なら13位相当。このレベルのスピードを一度でも体感しておくことは、世界の強豪が競い合うダイヤモンドリーグなど海外のハイペースのレースに挑戦する時にプラスになる。
今回は2位の太田智樹(トヨタ自動車)、3位の相澤晃(旭化成)まで、従来の日本記録を上回り、日本の男子10000mのレベルアップを示す大会となった。
パリ五輪にはこの種目の出場人数枠(27人)が標準記録突破者(1国及び地域で最大3名が対象)で満たされなければ、世界ランキング(Road to Paris 2024※欄外注)で出場ができる。この出場システムは2021年の東京五輪から採用され始めたが、無理なスケジュールで標準記録を狙うと五輪本番に合わせにくいため、世界ランキングでの出場も考慮したほうがいいことがわかってきた。
※Road to Paris 2024/標準記録突破者と競技会成績をポイント換算し1国3名(五輪における1国のエントリー最大数)を対象にしてランク付けする世界陸連独自のリスト。世界陸連ホームページで閲覧可能。だが、世界ランキングは他力本願の形にならざるを得ない。標準記録を突破したいのが選手の本音である。
「標準記録を突破していかないと(パリ五輪で)勝負していくのは難しいので、明日から今以上のタイムを目指してやっていければ、と思います」と塩尻は話している。
高岡SDも「この記録によって26分台を、という考え方ができる選手がまた増えます。世界で勝負できる、という気持ちに少しでも変わっていける」と、今回のレースが日本男子長距離界に好影響を与えることを期待した。
【完璧なペースメークの演出と順大時代の礎】
新記録、好記録量産の背景には、気象条件のほか、大会主催者である日本陸連のペースメークが完璧だったことが挙げられる。
日本選手権では初めて導入されたペーシングライトが狙いどおり選手たちの目安となったこと(緑や青など色別に設定記録のペースで点滅させる方法)、ペースメーカーのシトニック・キプロノ(黒崎播磨)も日本記録を上回るペースで選手たちを引っ張った。
標準記録突破が難しい状況の中、選手たちが今後も続く代表争いを見越して選考基準のひとつである勝負(順位)優先のレース(序盤はスローペースで後半勝負になる展開)になれば、それではオリンピックに出場しても戦うことはできない。日本の現状を考えれば、記録のレベルで世界に追いつくことが優先事項だった。
塩尻もその戦略に沿った走り方をした。
「今回は日本記録ペースで進むレースでした。ラストで無理に切り換えるより、(序盤からハイペースでいき)周りの選手に疲労が出たときに少しでも上げられればと思って走りました」
それは順大時代から塩尻が得意とするレースであり、序盤から速いペースで押し切るスタイルだ。箱根駅伝で学生ナンバーワンの走力を見せる一方、大学2年時の2016年には3000m障害でリオ五輪に出場、大学3年時の2017年には3000m障害の試合数を絞って10000mの走力アップに取り組んだ。箱根駅伝に向けて走り込みをしている11月後半に、10000mを27分47秒87の学生歴代4位記録(当時)で走った。
順大の長門俊介監督は当時を、次のように振り返る。
「ほぼ調整をしないで27分47秒だったので、日本記録(当時は27分29秒69)を間違いなく狙える選手だと思いました。当時は(日本では)厚底シューズも浸透していなかったですからね。塩尻はラストも強くなってきていますが、標準記録が上がってラスト勝負にこだわらずに済むことは、塩尻にはよかったかもしれません」
1区間20km以上の箱根駅伝に出場する選手は、トラックシーズンは10000m中心に出場するのが普通である。だが順大では選手個々の適性を重視するため、1500mや3000m障害などにも出場する選手が多い。特に3000m障害では、日本記録保持者や世界大会代表選手を多数輩出。現在4年生の三浦龍司(順大)が東京五輪で7位、今年の世界陸上ブダペストで6位と、世界レベルの選手に成長した。
「多種目で結果を出したり、卒業後に選手が大きく成長したりするのは、基礎の部分を大学時代に作っているからだと思います」(長門監督)
クロスカントリーを練習に取り入れたり、動きづくりのドリルを行なったり、近年の長距離強化は走るメニュー以外も重視されるようになっている。その先鞭をつけたのが順大である。澤木啓祐氏(1968年に10000m日本記録を樹立。1500mと5000mでも日本記録を更新)が母校の監督になり、米国オレゴン大学留学後に導入した強化スタイルだ。
塩尻は社会人1年目(2019年)の9月のレースで右膝前十時靱帯を痛め、東京五輪への挑戦はあきらめざるをえなかったが、約1年のブランクを焦ることなく乗り越えることができたのは、そうした礎があったからと言える。
真の世界基準・26分台への可能性を感じさせる日本記録だった
【箱根駅伝スター選手たちの切磋琢磨】
近年、箱根駅伝を戦った選手たちが世界で戦うことへの意欲を強くしていることも、10000mのレベルアップにつながっている。塩尻は4年時の2019年箱根駅伝2区(23.1km)で、1時間06分45秒と区間日本人歴代最高記録の快走を見せた。翌20年には相澤が1時間05分57秒と塩尻の区間記録を更新した。今回の日本選手権で4位の田澤廉(トヨタ自動車)は2022年に駒澤大時代、1時間06分13秒で区間賞を獲得し、23年も万全の準備はできなかったが1時間06分34秒(区間3位)で走った。
また、相澤と同学年の太田は4年時は直前の故障などもあり、1時間07分05秒の区間6位と上記3人ほどの戦績は残せなかったが、箱根駅伝2区に3回出走経験がある。卒業後のニューイヤー駅伝3区(13.6km)では、2年目の2022年に区間2位、2023年は大迫傑(Nike)を抑えて区間賞を取り、トラックシーズンも勝負強さを見せつけてきた。
塩尻は、"箱根駅伝2区経験者の注目選手同士が争った"というファン目線に理解を示しつつ、次のような話し方をした。
「箱根駅伝で同じ区間を走った縁は確かにあるんですけど、箱根の同じ区間で結果を残した者同士だから勝ちたい、という考え方にはなりません。箱根以外でも同じレースを走ることが何度もありますので、(どちらかといえば)お互いを知っている分、より負けたくないっていう気持ちになるのだと思います」
今回の日本選手権は、箱根駅伝ファンの注目を集めて盛り上がった。それは良いことであるが、そこだけを見ていたらもったいない。箱根駅伝で活躍した日本トップレベルの選手が多数出場するレースは、年間何度も行なわれている。
パリ五輪の10000m代表は2024年5月の日本選手権優勝者が、その日本選手権を含め標準記録を突破していれば代表に内定する。日本選手権以降は標準記録突破、もしくは7月30日以降に確定する世界ランキングで出場資格を得た選手が3人まで代表入りする。
塩尻は1月にニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)と全国都道府県対抗男子駅伝の駅伝2レースに出場する。特にニューイヤー駅伝は2区か3区への出場が予想され、3区(今回から15.4kmに変更)で追い風が吹けばトラック以上のスピードになることもある。チームの勝利のために走るが、結果的にスピード強化のトレーニングにもなる。
トラックでは5月の日本選手権に加え、海外レースも含めて世界ランキングに反映されるポイントが高い1レースに出場していく予定だ。今回の日本選手権後の世界ランキングで17位に入り、無理な日程で記録を狙いにいく必要はなくなってきた。それでも、標準記録を突破することが五輪本番の戦いにプラスに働くのは間違いない。
普段はおっとりした口調の塩尻が、「この記録(27分09秒80)をステップに、27分切りを目標にしていく」と力強く話した。