2022年の今ごろ、サッカー日本代表はカタール・ワールドカップを戦っていた。あれから1年、大善戦したカタール大会から、…

 2022年の今ごろ、サッカー日本代表はカタール・ワールドカップを戦っていた。あれから1年、大善戦したカタール大会から、サムライブルーはさらに大きく成長した。サッカージャーナリスト大住良之は、その最大の鍵のひとりが菅原由勢であったと考えている。

■増していく存在感

「第2期森保ジャパン」の船出となった3月のウルグアイ戦、コロンビア戦に2年ぶりに招集されると、圧倒的なスピードと攻撃力、そして安定した守備力を見せつけ、あっという間に「当確」となった。背番号はそのときから2番。ウルグアイ戦では0-1で迎えた後半30分に同点ゴールの起点となる。

 自陣でボールを受けた菅原は、一歩もつとタッチライ沿いを走る伊東純也の前方に鋭い縦パスを送る。伊東はスピードを上げ、追いつくとワンタッチで中央へ。そこに走り込んだ西村拓真がきれいに左足インサイドで合わせてゴールに送り込んだのだ。伊東に送ったパスは、タイミングもコースも強さも完璧と言っていいもの。この試合の先発11人のなかで最も若い(22歳)選手の「再デビュー戦」とは思えないほど成熟したものだった。

 以後、6月までの4試合で、日本代表の右サイドバックの先発は、常に背番号2、菅原のものだった。9月以降は、森保監督がその月の「インターナショナルマッチデー」の2試合を「完全ターンオーバー」する方針をとったため、毎月1試合になったが、当然のごとく菅原はより強い相手、より重要な試合に起用され、試合ごとに信頼を高め、存在感を増している。

■ドイツ戦での活躍

 白眉は9月のドイツ戦だった。アウェー、ヴォルフスブルクで行われた試合。昨年のワールドカップ(2-1で日本の勝利)のリベンジを期すドイツの気概をくじいたのは、まさに菅原だった。

 前半11分、相手陣深くの右サイドで鎌田大地からゆったりとしたパスを受けた菅原は、鎌田が前のスペースにはいっていく動きにドイツ守備陣が気を取られた瞬間を見逃さずに急激にスピードを上げて突破。相手左サイドバックのニコ・シュロッターベックをあっさりと抜き去ってそのまま高速クロス。これにニアポスト前で伊東が合わせて先制点となった。

 それだけではない。19分にドイツが日本の守備を崩して同点とし、ほっとした瞬間、またも右サイドで菅原が決定的な仕事をする。伊東が受け、鎌田を経由したボールに長距離のスプリントで受けた菅原は、こんどはシュロッターベックを前に置いたまま冷静に中央を見て伊東にパス。伊東のシュートは左に外れるコースだったが、ゴール前にいた上田綺世が反応して巧みにコースを変え、再びドイツを突き放した。そしてこの2点目の痛手から、ドイツは結局立ち直ることはできなったのである。

■地元での成長

 菅原は2000年6月28日愛知県豊川市生まれ。小学生時代は「ASラランジャ豊川」というクラブでプレーした。このチームは、1987年に京都につくられ、現在は関西サッカーリーグの2部で活動している「ASラランジャ京都」というクラブの支部として2003年に設立されたものである。

 中学から高校時代には名古屋グランパスのアカデミーで活動。圧倒的な存在感と常にポジティブな姿勢がプロ向きと評価され、2018年2月、高校3年生を迎える前に「2種登録」としてトップチームに入れられ、J1開幕戦のガンバ大阪戦(アウェー)で先発フル出場した。背番号は41だった。

 この試合、いきなりG大阪の倉田秋に抜き去られて先制点を許すという痛いスタートだったが、その後は3バックの右というポジションをしっかりこなし、チームも3-2で逆転勝ちを収めた。その後12試合連続出場を果たし、3月には17歳10か月でプロ契約を結んだ。このときの名古屋の監督は風間八宏である。

 そして翌2019年6月、19歳の誕生日の直前にオランダのAZアルクマールに期限付き移籍。AZでは当初はリザーブチーム(ヨングAZ)の所属だったが、8月のシーズン開幕からトップチームで先発の座を与えられ、翌年2月にはAZが「買い取りオプション」を行使し、完全移籍となった。

いま一番読まれている記事を読む