5人目のリレーメンバーが見ていた景色 髙橋萌木子 編(前編)陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人が…

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 髙橋萌木子 編(前編)

陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しないことが多い。その日の戦術やコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。走れなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか――。
 2012年ロンドン五輪。女子4×100mリレーは前日の夜に出場メンバーの発表が行なわれたが、それまで貢献してきていた髙橋萌木子の名前は呼ばれなかった。

「外れるとはまったく思ってもいなかったので、『何で?』というより、今までにない感情になりました」

彼女がそう思う背景には、2008年の北京五輪以降、自身が背負ってきたものがあった。

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今だからこそ振り返ることができるロンドン五輪の苦悩を語ってくれた髙橋萌木子

 photo by Nakamura Hiroyuki

「2008年の北京五輪に福島千里選手だけが(短距離の)個人種目で出ていて、それが終わってからの4年間は『4継に徹して、福島と髙橋の2軸でやっていく』と言われていました。下の立場からガラッと変わって、年上の先輩にも自分が(意見を)言わなければいけない場面や、引っ張っていかなければいけない苦しさもありました。『どんな状況でも使う』と言われていたのを4年間続けて、日本記録も更新してきたけど、一番準備をしていたロンドン五輪の1本だけを走れなかったんです」

 福島は個人で100mと200mにも出場するため、リレーチームは髙橋がリーダーになっていた。だからこそ外れたとしても、落ち込んでいるヒマはなかった。

「切り替えなければいけなかったので、自分の心は一旦置いてチームのために動くようにしていました。私情を出したらチームに迷惑がかかってしまうので、そこからはもうサイボーグ状態。やるべきこと、与えられた仕事に徹するだけでした」

【責任感の強さゆえのストレス】

 埼玉栄高時代はインターハイ100mで史上初の3連覇を果たし、別の大会では11秒54の高校記録も樹立した。平成国際大に進学した2007年には日本選手権で初優勝をし、8月に行なわれた世界選手権大阪大会では100mに出場し、4×100mリレーでは4走を務めた。

 その翌年の春には同学年の福島が、11秒36の日本タイ記録をマークして北京五輪代表に選出され、それは日本女子短距離にとって起爆剤となったが、髙橋としても殻を破るキッカケになった。

「大学1年までは、自分が(日本で)上になっちゃったことでつらくなり、モチベーションが下がっていました。タイムはさほど上がってないけど、何をやっても勝ってしまうというのが自分のなかで苦しくなっていました。でも4月の織田記念陸上でチー(福島)が11秒36を出したのがすごい衝撃でした。初めて彼女に負けた上に、日本記録のスピードを同じレースで体感して『えっ、こんなに?』と、ダブルパンチを食らって。その衝撃で『これは自分を変えなきゃいけない』と思えるようになって、秋の国体では200mで23秒48の自己新を出してチーに勝てました」

 翌2009年は躍進の年だった。織田記念では追い風2.2mで惜しくも公認にはならなかったものの11秒24で走り、福島に0秒01差の2位。その4日後の静岡国際の200mではまたしても福島に0秒01負けたが、それまでの日本記録23秒33を大きく上回る23秒15を出した。

 さらに6月の布勢スプリントでは100mで自己ベストの11秒32(現在日本歴代3位)を記録し、静岡国際の200mに次いで8月の世界選手権の参加B標準記録を突破。日本選手権で200mは2位だったが、福島が足の痙攣で棄権した100mは11秒34で優勝を果たし、7月のユニバーシアードでは日本女子短距離初となる銀メダルを獲得。

 世界選手権では福島とともに個人2種目を走り、上位記録2回の合計で世界ランキング16位以内という条件を突破した4×100mリレーも自力で出場権を獲得した。

「織田記念の記録が公認だったらまた違ったかもしれないけど、(11秒)2台を連発して『ここまできたか』という感じで。そのあとも200mで自己新が出たから、4継をやれば日本記録も必ず出るだろうと思い、どうやって自分の走りに徹するかしか考えていませんでした。ただ、世界選手権の4継は、みんな戦い方を知らないので思い切り空気に飲まれていて。出ることだけが目標みたいな状況でした。北京五輪の年まで11歳上の石田智子さんや信岡沙希重さんが自分たちの経験を言葉で伝えてくれたり、背中で見せてくれていたけど、北京が終わってからは世代交代のような形になって、世界選手権は個人種目もあってリレー練習だけに特化できませんでした。私たちが年下だからうまく言えないこともあって、チームとしてのコミュニケーションが取れない状況があったんですよね」

 練習ではバトン区間のタイム計測のデータをとっていたが、選手たちはその活用の仕方がよくわからず、逆にストレスになった。また選手たちの意識にも差があった。

「みんな世界で戦いたいと口では言うけれど、『どのように戦いたいのか』というのを言えたのはチーくらいで、具体的なことは言えてなかったです」

 世界選手権後は11月のアジア選手権の200mで優勝し、4継でも世界選手権と同じメンバーで優勝。翌2010年の日本選手権でも100mは2位だったものの200mは福島に0秒01競り勝って優勝した。大陸別対抗のコンチネンタルカップでは200mと4継の代表になり、アジア大会では100m4位、200m6位で4継は3位と結果を出した。だがこの頃から少しずつ髙橋の心は乱れ始め、記録の低迷も始まっていた。

「まずは自分を見なければいけないのに、自分の心を置いてけぼりにして(走りを)作り上げようとしていたんですよね。疲れているので心では『休みたい』と思っているのに、体は動けるので『頑張れ!』と言って。心と体のギャップが生まれて、練習はしているのにタイムは伸びないというような状況でした。

 私は昔から悔しい時はその感情をすごく表現するタイプだったんです。でもある時にコーチから『泣くな、みっともない』と怒られたことがあって。『大人の世界に入ったら泣くことはいけないんだ』と思って自分の感情に蓋をしました。『泣いちゃいけない、泣いちゃいけない』と思ってやっていたら悔しさが麻痺し始め、負けても『あ、また負けたか』くらいになっていきました。

 特に2010年の静岡国際でチーが22秒89で勝って私が23秒17だった時はコーチにすごく怒られたし、タイムは評価されず予選落ちと同等のような扱いだったので、私が走っている意味はなんだろうと思い始めて、でも走らないと怒られるから、すり減った心は置いておいて、神経と筋肉を何とか使って走っている感じでした」

中編「ロンドン五輪直前に感じていた練習内容への不安と疑問」へ続く>>

プロフィール
髙橋萌木子(たかはし ももこ)
1988年11月16日生まれ、埼玉県出身。
中学時代はソフトボール部に所属しながら陸上に取り組んでいたが、埼玉栄高等学校入学後、本格的に陸上を始める。100mではインターハイで高校3連覇を果たし、3年時の南部記念では11秒54の高校記録も更新。平成国際大学進学後も日本選手権の100mで初優勝するなど、この頃からリレーの日本代表としても活躍し始めた。2009年には福島千里と共に200mで日本記録を出したが、2011年ごろからは不調に苦しんだ。2015年に所属先を富士通からワールドウイングに変えて練習を続けていたが、2020年9月に引退。現在はスポーツメンタルトレーナーとして選手たちを支えている。