5人目のリレーメンバーが見ていた景色 髙橋萌木子 編(中編) 前編では、北京五輪から好調な時期を経て、少しずつ心を削りながら陸上に向き合い、なぜ自分が走っているのかわからない状況でも走り続けていたと語った髙橋萌木子。中編ではロンドン五輪まで…

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 髙橋萌木子 編(中編)

 前編では、北京五輪から好調な時期を経て、少しずつ心を削りながら陸上に向き合い、なぜ自分が走っているのかわからない状況でも走り続けていたと語った髙橋萌木子。中編ではロンドン五輪まであと1年に迫ったあたりから、ロンドン五輪入りをしたリレーチームのなかでの、自分のあるべき姿や当時の苦悩を振り返ってもらった。


ロンドン五輪前にはチームと個人のバランスに悩んだという髙橋萌木子

 photo by Nakamura Hiroyuki

 2011年からは100m11秒5台、200m23秒7台で好調とは言い難いなか、それでも4継は日本の主力として走り続け、市川華菜(中京大→ミズノ)などの若手が台頭してきた2011年は5月のゴールデングランプリ川崎で日本新(43秒39)を出して、8月末から始まる世界選手権の参加標準記録を突破。さらに続く中国のアジアGP3戦でも4継を走ったが、その疲労もあって日本選手権で個人種目は低迷した。リレー代表として、7月にアジア選手権も含めて2本のレースを走り、迎えた世界選手権で、3走の福島千里とともに2走の髙橋は固定オーダーだった。

「年下の選手たちが出てきて、コミュニケーションも取りやすくなり、そこからチームっぽくなってきた感じはします。それに私とチー(福島千里)が2走と3走に固定されたことで、1と4に誰が入るかという状況で、1走に関しては北風沙織さん(当時・北海道ハイテクAC)がいました。彼女は大学1年からずっと一緒だったので、年上でも言いやすくて信頼関係もあったので、バトンでも攻めることができました。そして4走に市川さんが入った時に日本記録を出せました。

 ただ、世界選手権に向けてはコーチが明確な戦い方を示してくれず、戦略は選手たち任せという感じでもあったんですよね。バトンを渡す位置はゾーンのどのあたり、ということなどを示してくれたらより質の高い状況ができたかもしれないですが、数字のデータだけで、それをどう使うかはわからないままでした。

 そんななかでチーは個人のレースもあったし、私は代表合宿に呼ばれたのが高校2年に上がる前の2005年の冬からで、経験もあったからチームを引っ張る役割にもなっていました。私の場合は少年野球からソフトボールと、ずっとチームスポーツをやっていたからまとめ方がわかるというか。それで自分のことが二の次になってしまい、それぞれの色をちゃんと殺さずにどうやったらいいか、ばかりを考えていて、心が追いつかない部分もありました」

 そんな状態で迎えた2012年6月の日本選手権は苦しい戦いだった。100mと200mはともに3位。2種目で優勝した福島に加え、リレーメンバーとして100m2位の土井杏南(埼玉栄高)と200m2位の市川、100m4位の佐野夢加(都留文大職員)とともにロンドン五輪の代表に選ばれた。

「ギリギリでリレーの代表は死守したけど、たぶん心が疲れていたから『行くぞ!』という気持ちも出てこなくなっていて、日本選手権が終わった時も悔しさがこみ上げてこなかったんです。そのあとにロンドン五輪があったけど、『自分はもう選手として終わりかもしれない』『辞めたほうがいいかもしれない』とも思っていました。何事にも悔しい気持ちが芽生えないと自分は成長できないと思っていたのに、それを日本選手権で感じてしまったので、『ロンドンが終わったら引退するかも』という思いが頭のなかを巡っていました」

 それでも五輪へ向けて足を止めるわけにはいかなかった。日本は、上位2回の記録の合計でのランキング16位以内には入っていたが他国がロンドン五輪に向けて、記録を上げてくることを警戒し、記録を狙ってオーストラリアの大会でも走った。

【なぜこのタイミング?で行なわれたトライアル】

「出場が決まったあと、いつだったか忘れましたがフランクフルトの事前合宿で100mのトライアルをやるという知らせを書面でもらい、『何でこのタイミング?』と思いました。私は走るなら2走だからスターティングブロックを使う必要がないので、日本選手権以降は120mをしっかり走れるように、スタンディングスタートからの加速走に徹してずっと作り上げていました。それまでは大体オーダーは固定されていて、自分の走順に徹してバトンの精度を高めていくほうを大事にしていて、そこでタイムが出る人から選ぶみたいな感じでした」

 合宿でもバトン練習をする場合、髙橋と福島は2走と3走に入るため、ふたりは他の3人よりやることが多かった。

「私とチー以外は1走と4走の可能性があるので、私もチーもバトン練習では3人全員と合わせなくてはいけない。回数が多くなるので疲労は出てくるし、それに加えてチーとの2-3走のバトン合わせもあって、チーは本当に速いから、集中して質を高めないとしっかりできない。だからこそ練習をもう少しシンプルにして欲しかったですね。バトン練習も3パターンあると1日でやるのは難しいので、日にちを別にして他の組み合わせでやったりしていました。そう考えると質の低い練習だったと思いますし、『この時期の代表でやるべき練習なのかな』と感じていました。他の3人も不安になっているのがわかったので、早くメンバー発表をしてもらいたいとコーチに聞きにいっても答えてはくれなくて......」

 トライアルへ向けたスターティングブロックからの練習はしなかった。「できなかったですね。私がやるとしたら2走だと思っていたので、トライアルに備える必要はまったくないと思っていました。一番走らなければいけないのはロンドンの予選の日だから、『何でわざわざトライアルにピーキングを合わせなきゃいけないの?』と思って。ここで合わせたら短期間でもう一度ピークを作るのは不可能だから、『ここは通過点でスタブロは絶対に使わない』と思っていた」という気持ちでトライアルに臨んだ。


ロンドン五輪前の合宿では苦悩を抱えながら臨んでいた

 photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT

「でもその時はもう、落ち込んでいましたね。みんなピリピリしていてチームとしては全然いい状況じゃなかったので、自分の走りの精度を高めるというよりはチームのバランスを整えようとすることで精一杯でした。だからトライアルの内容も覚えていないんですよね。ただ、私が4着で佐野さんと僅差だったことだけは覚えていて、『ああ、これで私は補欠になるんだろうな』とも思ったのは覚えています。

今思うと悪い意味で自分の感情をコントロールしてしまったんです。だから平成国際大の男子コーチの松田克彦先生が遠征先にきた時、『私、補欠に入ったほうがいいと思います』と言っていたみたいで、あとから松田先生に『あの時、萌木子は第一声でこう言ったんだよ。覚えてる?』と言われて、『そんなこと言っていたんですか』って驚きました。そこまで追い込まれていたんですね」

 だが最終的なメンバー発表はされていないのだから、自ら白旗をあげるわけには行かないと思っていた。

「ロンドンに入ってもなかなかメンバーの発表がなかったけど、私はリレーのキャプテンだから、みんなが『集中してやりたいからオーダーを聞きたい』と言われたらコーチに聞きに行ったりしていました。チーを除いたバトン練習の時には、トイレに篭って泣き出している子もいたり......。レース直前なのに『チームがまとまっていない』と上からは言われて混乱したけど、今までリレーチームを作り上げてきたという自分の責任感だけが気持ちを保つ支えになっていたと思います」

 結局、直前のメンバー発表では髙橋は補欠だった。「ああ、やっぱり」と思った髙橋は、ミーティングが終わったあとでひとり外に出て、大泣きをした。

「みんなに泣いているところは見せられないし、レース前にそんな心配はかけられないと思って外に出ました。すぐには帰れないから、トレーナールームに行って、ちょっと気持ちを落ちつかせてから、何事もなかったように部屋に戻りました。他の人たちも寄り添いにくかったと思うから、あまり同じ部屋にいないようにして、ハードルの木村文子ちゃんの部屋に行っていました」

後編「髙橋萌木子が『私の陸上を返してよ』と号泣したロンドン五輪」に続く>>

プロフィール
髙橋萌木子(たかはし ももこ)
1988年11月16日生まれ、埼玉県出身。
中学時代はソフトボール部に所属しながら陸上に取り組んでいたが、埼玉栄高等学校入学後、本格的に陸上を始める。100mではインターハイで高校3連覇を果たし、3年時の南部記念では11秒54の高校記録も更新。平成国際大学進学後も日本選手権で100m初優勝するなど、この頃からリレーの日本代表としても活躍し始めた。2009年には福島千里と共に200mで日本記録を出したが、2011年ごろからは不調に苦しんだ。2015年に所属先を富士通からワールドウイングに変えて練習を続けていたが、2020年9月に引退。現在はスポーツメンタルトレーナーとして選手たちを支えている。