伊達昌司インタビュー(前編) 昨今、アスリートのセカンドキャリアに注目が集まっている。たとえばプロ野球選手の場合、指導者や解説者として野球界に残れる人はほんのひと握りで、多くは異業種への転職を強いられている。そんななか、阪神、日本ハム、巨人…

伊達昌司インタビュー(前編)

 昨今、アスリートのセカンドキャリアに注目が集まっている。たとえばプロ野球選手の場合、指導者や解説者として野球界に残れる人はほんのひと握りで、多くは異業種への転職を強いられている。そんななか、阪神、日本ハム、巨人でプレーした伊達昌司氏は現在、公立高校の教員として「教壇という名のマウンド」に立っている。プロ野球時代の思い出、教員になったきっかけについて語ってもらった。



2001年6月17日の横浜戦でプロ初先発初勝利を挙げた伊達昌司氏

【父は元ロッテのドラフト1位】

── プロ野球を現実のものとして意識し始めたのはいつですか?

伊達 父(泰司さん/1972年ロッテドラフト1位→ヤクルト)がプロ野球選手だったので、幼い頃はロッテのファンクラブに入って、村田兆治さんや伊良部秀輝さんの投球を見たり、ヤクルトの尾花高夫さんにサインをもらったりしていました。

── 高校は名門・法政二高に進まれます。

伊達 高校時代は隣にある法政大のグラウンドで練習している高村祐さん(1991年ドラフト1位)らを見て、漠然と「プロに行きたいな」という夢はありました。

── 現実的に意識したのは法政大に進まれてからですか?

伊達 3年春のリーグ戦で防御率1位になり、プロを現実のものとして意識し始めました。大学では3歳上の稲葉篤紀さん(1994年ヤクルトドラフト4位)、同期の真木将樹(1997年近鉄1位)、1歳下の矢野英司(1998年横浜ドラフト2位)もプロ入りし、そういうなかでプレーできたことは大きかったと思います。

── その後、プリンスホテルに進まれ、2000年にドラフト2位で阪神に入団されます。同期のドラフト1位・藤田太陽さんは逆指名でしたが、伊達さんは逆指名ではありませんでした。

伊達 逆指名しなかったのは、父がロッテのスカウトだったのを配慮したわけではありません。阪神が逆指名したかった選手が辞退したか何かで、代わりに僕が指名されたんでしょう(笑)。同じ年に指名された赤星憲広(ドラフト4位)と沖原佳典(ドラフト6位)は、都市対抗で東京ガスの補強選手としてチームメイトになったのですが、奇遇にもまた阪神で同じになるとは......驚きました。ただ今は、教員生活が忙しくて、プロ野球時代の仲間と連絡はとれていません。

【プロ初先発初勝利】

── 2001年5月25日のプロ初登板(甲子園)、記念すべき最初の奪三振は松井秀喜(巨人)さんからでした。

伊達 あれには伏線があって、オープン戦で松井さんにホームランを打たれているんです。それもあって、甘いところに投げたらいけないという意識があって、ワンバウンドするようなフォークを投げたら振ってもらえました。"振り逃げ"というオチがつきましたが......(笑)。

── 同年6月17日の横浜(現・DeNA)戦では、プロ初先発初勝利。阪神では1984年の池田親興さん以来、17年ぶりの記録でした。チームは4年連続最下位に終わりましたが、伊達さんはルーキーながら7試合に先発して4勝を挙げました。

伊達 頑張って、一軍にしがみついていましたね。捕手の野村克則さんは2歳上で、同じ東京六大学の明治大出身。大学時代に僕が初安打を打たれた縁もあり、バッテリーを組んでうまくリードしてもらいました。当時監督だった野村克也さんにサインをしてもらった記憶があります。

── 翌2002年は、星野仙一さんが新たに監督に就任し、伊達さんもリリーフで41試合に登板しました。

伊達 前年、星野さんは中日の監督で、ベンチから僕の投球を見てくれていたんだと思います。星野さんは我慢強く使ってくれました。監督としての星野さんの印象は、とにかく"エネルギッシュ"だったということです。

── 入団してから2年ともそれなりの成績を残したのに、下柳剛さんらとの複数トレードで日本ハムに移籍。トレードを通告された時の心境はいかがでしたか。

伊達 2002年の秋季キャンプで、翌年から投手コーチに就任される西本聖さんに指導を受け、「さぁ来年」と思っていた矢先でした。それだけに自分が"商品"であることを痛感しました。プロはピンチとチャンスが表裏一体。だから、商品価値を高めなくてはいけないんだと。

【巨人の名投手から学んだこと】

── 阪神では背番号「49」でしたが、日本ハムでは「17」と期待の大きさがうかがえました。事実、ストッパーを任され、開幕戦では前年優勝の西武からプロ初セーブ。移籍1年目は、最終的に51試合に登板して5勝9セーブの成績を挙げました。

伊達 トレイ・ヒルマン監督が春季キャンプで、「球数を少なくして、勝負していこうよ」と目をかけてくれました。僕自身は緻密なコントロールがあるわけではないので、内角を意識させて、スライダーやフォークで勝負するのが生命線でした。阪神時代の応援歌は「喧嘩投法」でしたし(笑)。

── 2004年はケガで離脱もあり、19試合と登板数を減らしました。そして翌年の開幕前に巨人にトレード。

伊達 巨人ではほとんど一軍にいませんでした。先程の「ピンチとチャンスは表裏一体」の考えは、日本ハムでは生かせましたが、巨人ではダメでした。ただ、桑田真澄さん、工藤公康さん、前田幸長さんといった一流の投手がけっこうファームにいて、桑田さんの「集中力とキャッチボールの精度」、工藤さんの「投球時の踏み出す足の粘り」、前田さんの「若手へのアドバイスの仕方」などは勉強になりました。

── 巨人で2年間プレーし、2006年限りで現役を引退されます。3球団で2年間ずつ。まだ十分やれると思いましたが、プロに未練はなかったですか。

伊達 力がなかったのでしょう。「やりきった」という思いもあったので、トライアウトを受けて、縁がなかったら仕方ないと思っていました。すでに結婚もしていたので、NPB以外の独立リーグや海外のチームに行くという選択肢はなかったです。

── 言いづらい話ですが、伊達さんが移籍すると前所属のチームが優勝というジンクスがあります。

伊達 そうなんですよ(笑)。あの歓喜の輪に加わりたいという思いは、正直ありました。だから、「そのジンクスを知っているチームが僕を獲得して、移籍させれば優勝できるのに......」と思っていました。

── プロ野球時代、一番悔しかったこと、思い出に残っていることは何ですか。

伊達 悔しかったのは2001年6月9日の巨人戦(東京ドーム)で、清原和博さんが記録した1試合3本塁打のうち2本目と3本目を打たれたことです。その3本目はいわゆる"ブロークン・バット・ホームラン"。バットを折りながらレフトスタンドに運ばれました。そんなプロ野球の圧倒的な力を持った選手たちと対戦し、体もそれほど大きくないし(179センチ)、すごいウイニングショットもなかったけど、内角を攻めたり、タイミングを変えたり、工夫をしながら、なんとか食らいついてやってきました。人間、頑張れば何とかなるという手応えを感じました。それは僕がプロ野球経験者として、生徒たちに一番伝えたいことです。

後編:「甲子園で投げるより緊張する瞬間」はこちら>>

伊達昌司(だて・まさし)/1975年8月23日、神奈川県生まれ。法政二高、法政大、プリンスホテルと進み、2000年のドラフトで阪神から2位指名を受けて入団。1年目にプロ初登板初勝利を挙げるなど、4勝をマーク。2年目は中継ぎとして41試合に登板するも、同年オフにトレードで日本ハムへ。移籍1年目の03年、51試合に登板して5勝9セーブ。05年3月に巨人にトレードされ、06年に現役を引退した。引退後、東京都の教員採用試験に合格し、江戸川高、府中西高を経て、19年に雪谷高に着任。21年春から野球部監督を務めている