サッカーの世界において、日本と韓国はライバル関係にある。だが、Jリーグが始まる前、すでにプロ化していた韓国サッカー界は…
サッカーの世界において、日本と韓国はライバル関係にある。だが、Jリーグが始まる前、すでにプロ化していた韓国サッカー界は大きく日本をリードしていた。蹴球放浪家・後藤健生は、ピッチ外にも、彼我の大きな差を見せつけられていた。
■馴染み深い韓国
1980年代から90年代にかけて、僕はしょっちゅう韓国に行っていました。ソウル以外にも行きましたし、1985年には平壌(ピョンヤン)にも行きましたが、中でもソウルのことは、生まれ育った東京や、かつて仕事勤めをしていた横浜の次に詳しくなりました。
そして、ソウルに行くたびに大韓蹴球協会に顔を出していました。入場券やプレスパスをもらったり、誰かのインタビューをしたり、資料を集めたりするためです。
たとえば、日韓戦の取材などでも、今と違って日本の協会が取材申請をまとめてくれるわけではなく、韓国協会と直接やり取りをする必要がありましたから、大韓蹴球協会には必ず顔を出さなければなりませんでした。
■レトロな蹴球会館
当時、大韓蹴球協会はソウル市内を東西に走る大通り、鍾路(チョンロ)の北側の細い通りを入ったところにありました。
地下鉄1号線の「鍾閣(チョンガク)駅」の近くです。
鍾路を挟んで南側は、サラリーマン相手の飲み屋が並ぶ武橋洞(ムギョドン)という盛り場でした。東京でいえば、新橋のような所ですね。今は、周辺一帯は再開発されてしまいましたが、武橋洞の盛り場は今も健在のようです。
今は市内を流れる漢江(ハンガン)より南の、いわゆる江南(カンナム)地区がファッションやグルメの街としてにぎわっていますが、1988年のソウル・オリンピック前は江南の開発はあまり進んでいませんでした。ちょっとご縁があって、江南区清潭(チョンダム)洞という所の旅館に何度か泊まったことがあるのですが、今は近代的な繁華街になっている清潭も、当時はアパートのほかには何もない場所でした。
さて、協会のビルは狭い土地に無理やり建てた、たしか5、6階建ての細長くて、かなり時代が経った古い建物で、玄関には「蹴球会館(チュックフェグァン)」というレトロな木の看板が懸かっていました。おそらく、朝鮮戦争後の1950年代に建てられたビルだったのでしょう。
はっきり言えば、かなりのオンボロ・ビルだったのです。
■当時の日本との差
しかし、当時、日本のサッカー協会は原宿の岸記念体育会館の中の一室にありました。
日本体育協会(現、日本スポーツ協会)の第2代会長、岸清一を記念して1940年にお茶の水に建設された岸記念体育会館は、1964年の東京オリンピックを機に国立代々木第一体育館の南側に引っ越してきました。そして、このビルに日本体育協会はもちろん、各競技団体のほとんどが入居していたのです。
日本サッカー協会も、たしか3階の一室にありました。隣はホッケー協会だったような気がしますが、この記憶は定かではありません。
小さな部屋で、会長以下の役員のほか2、3人の事務局員が働いていました。協会に電話をすると、いきなり「はい、日本サッカー協会です」と長沼健会長が電話口に出てくるという、まるで個人商店のような状態だったのです。
それに比べれば、たとえ築数十年であっても、大韓蹴球協会は“自社ビル”を構えていたのです。「さすが、サッカー強国」と感心するしかありませんでした。
当時の協会会長は大宇(デーウ)財閥の創始者、金宇中(キム・ウジュン)氏でしたから、資金は同財閥が負担していたのでしょう。韓国では、各競技団体を財閥や大企業が丸抱えで面倒を見るのが伝統でした。一種の社会貢献なのでしょう。