サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「後ろ手ディフェンスが嫌いな理由」。
■サッカーの喜びの根源
ビデオ・アシスタントレフェリー(VAR)の導入と時期を同じくして始まったハンドリングの反則に関する判定基準の混乱により、欧州主要国のDFたちはセンタリングやシュートを阻止しようとキッカーの前に立ちはだかるときには両手を体の後ろで組んで隠すようになった。私はこの行為が大嫌いだ。
ディフェンダーたちを非難するのではない。彼らにこんなことを強いている現在の「ハンド」の判定基準に大いなる疑問を抱くのである。なぜならば、こうした行為は、サッカーの喜びの根源である「自由さ」を根本から損ねるからである。
実は私は、「サッカー」というものに最初に出合った日に、まさにその行為を強いられたのである。その日から数年間、私はサッカーに親しまなかった。きょうはその話をしよう。
■「戦後」が色濃く残る時代
私は1951年生まれである。昭和にすると26年、「戦後」がまだ色濃く残っている時代だった。神奈川県横須賀市の外れの漁港の町で生まれ育った。私の家のすぐ背後、港に面した地区には米軍の倉庫があり、ときおりジープに乗った米兵がやってきた。
日本海軍の軍港をもっていた横須賀市だから、当然、空襲はあった。しかし市街地の被害はそう大きくはなく、私の住む町も、読者がNHKの戦争ドラマでよく見るに違いない「焼け跡・闇市」のような光景ではない。戦争孤児たちが米兵のクツ磨きで家族を養わなければならなかった時代でもない。私が生まれる前年の1950年に始まり、2歳の誕生日の直後に終結を迎えた朝鮮戦争によって、日本の経済は急速に復興し、私が少年期を迎えるころには日本の社会はだいぶ落ち着いていた。
米兵が貧しい服装をした日本の子どもたちにチョコレートを配る図は、私の少年時代にはもう「昔話」のようになっていた。しかしある日レイバンのサングラスをかけた米兵が私の家の近くをジープで通りかかるのを見かけたとき、私は遊び友達と彼をからかってやろうといたずら心を起こした。そして通り過ぎる米兵に向かって、「チョコリット、チョコリット!」と叫んだ。横須賀の子どもたちは、英語の発音が本場風なのである。
驚いたことに、その米兵はブレーキをかけてジープを止めた。そして車から降りてくると、「きょうはチョコレートはもっていないけど、チューイングガムがあるからあげよう」と、私たちにガムをくれたのである。
小学校に上がったか上がらないかのハナたれ小僧(私はまさに、四六時中鼻水をすすっているハナたれ小僧だった)でも、当時の子どもはそれくらいの英語は理解できた(これはウソ。しかし状況を考えれば、言っていることを想像するのは難しいことではなかった)。そして満足そうに走り去るジープの米英に「センキュー!」と叫びながら手を振り、ハナたれ小僧仲間とおいしくガムをいただいたのである。
■サッカー浸透の原点
さて、私が小学校に上がった1958年は、日本のサッカーにとって非常に重要な年である。この年、小中学校の「学習指導要領」が11年ぶりに全面改訂され、「体育」の学習内容のなかに初めてサッカーが採用されたからである。当時東京教育大学(現在の筑波大学)で教べんをとっていた故・多和健雄さんの尽力で採用されたものだった。
学校で親しんだことにより、1960年代にはサッカーという競技が日本人にとってなじみのあるスポーツになり、東京とメキシコ両オリンピックでの日本代表の活躍で次第にポピュラーな競技となっていく。日本サッカーの発展への多和さんの貢献は、非常に大きなものであったと言わなければならない。
1918年に愛媛県で生まれ、兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校(筑波大学、東京教育大学の前身)でサッカー選手として活躍した多和さんは、サッカーの教育的価値、そして文化的価値を広めようと、1956年に始まった学習指導要領改訂のために招集された教育審議会に働きかけた。当時、サッカーは日本人にはほとんどなじみがなかったが、多和さんの働きかけは見事成功した。
■サッカーの学び方
ただ、サッカーといっても最初からゲームをしたわけではない。1、2年生の「学習内容」は「ボールけり遊び」であり、止まっているボール、あるいはゆるく転がってくるボールを足でけるというだけのものだった。3、4年生では「ラインサッカー」を教えることとなっていた。これは横並びになった両チームが10~15メートルほどの間を置いて向き合い、とにかくボールをけり、相手のラインを越えたらゴールというものであった。そして5、6年生になって初めて2個のゴールを置いた「簡易サッカー」ということになるのである。
教育指導要領が変わっても、それを周知徹底させ、先生たちにも指導法を教えなければならない。新しいものが実際に学校の現場で指導されるようになるまでには、数年を要した。したがって、私とサッカーの出合いは、まさに小学校の中学年になったころ、3年生か4年生のときだった。当時の文部省(現在の文部科学省)は、小学校の体育の授業でいつ何を指導するかまで指定していた。サッカーを含む「ボール運動」は、運動会が終わった後、10月から11月に行われることになっていた。3年生のときだったか、4年生のときだったかは覚えていない。しかし秋だったのは間違いない。すなわち、1960年か1961年の秋のことである。