「大器晩成」という言葉がぴったりのドラフト候補がいる。山梨学院大の右投げ右打ち大型外野手・宮崎一樹だ。184センチの長身ながら、50m走のタイムは昨年12月と今年6月の侍ジャパン大学代表合宿に参加した野手でトップ。さらに強肩も兼ね備えるなど…

「大器晩成」という言葉がぴったりのドラフト候補がいる。山梨学院大の右投げ右打ち大型外野手・宮崎一樹だ。184センチの長身ながら、50m走のタイムは昨年12月と今年6月の侍ジャパン大学代表合宿に参加した野手でトップ。さらに強肩も兼ね備えるなど、高い身体能力で注目を集めている。

 侍ジャパン大学代表にも選出され、強化合宿期間中に臨時コーチを務めた井端弘和氏から「伸びしろがかなりある。タイプ的には塩見泰隆(ヤクルト)のよう」と称賛された。

 そんな宮崎だが、高校時代までは無名の存在。それどころか中学、高校は6年間控えで、「大学では硬式野球をするはずではなかった」というのだから、人生はどう転ぶのかわからないものだ。



山梨学院大の大型外野手・宮崎一樹

【施設のよさに憧れ入部するも...】

「入るところを間違えた......」

 山梨学院高に入学した当時、宮崎は3年生のプレーや体つきを見て、自身の選択を後悔した。

 人気アニメ『メジャー』を観た宮崎少年は、「主人公もリトルリーグだったから」という理由で、両親が勧める軟式野球ではなく、小学1年生の時から調布リトルで硬式球を握った。すでにこの頃から身体能力の高さの一端は見せており、足は校内トップ、チームでもエース兼中軸打者として関東大会優勝を果たした。

 だが中学入学時に「身長が150センチちょっとしかありませんでした」という成長の遅さで、清宮幸太郎(日本ハム)らを輩出した強豪・調布シニアに入団してからは周囲との差が生まれてきた。さらに右肩のケガも重なり、左翼手の2番手というポジションで中学野球を終えた。

 そして多くの野球少年たちにとってひとつの集大成となる高校野球を前に、宮崎はまたも小学生の時から変わらぬ純粋な思いで進路を決める。

「シニアのレギュラーだったヤツが山梨学院高校へ見学に行って、『施設がめちゃよかったぞ』と言うので、『僕も山梨学院に行きたいです』と思いつきで言いました(笑)。シニアの監督には『入ることはできてもスタンド(で応援)だろう』と思われていたようなのですが、控えといっても『チーム内では10番目くらい』だと自分では思っていたので、それなりに自信はあったんです」

 だがその自信は、前述したように入学直後に木っ端微塵に打ち砕かれた。上級生だけでなく、同級生を見渡しても「(能力的に)下から数えたほうが早かった。苦しかったですね」と振り返る。

 それでも野球を辞めるという選択肢は考えなかった。学校から誘われての入学ではなかったため、特待生ではなく、学費や部費、寮費などすべて満額を支払っていたため、「親のためにも」という思いがあったからだ。それに加え、自身の性格も影響しているという。

「めちゃくちゃ負けず嫌いなんです。(試合に)出られないからこそ頑張ったし、1年の冬はバットを振りまくりました」

 ベンチ入りしたのは2年秋になってからで、結局、高校の3年間でレギュラーを獲得することはできなかった。

 一方で、宮崎を評価してくれる人物もいた。それが部長として横浜高校の黄金期を支えた小倉清一郎氏だ。当時、山梨学院の臨時コーチを務めていた小倉氏は、宮崎の身体能力の高さを買って、吉田洸二監督に起用を進言した。

 その結果、宮崎は甲子園では春夏ともに初戦でスタメンでの出場を果たし、夏にいたっては県大会で出場なしから抜擢された。それでも宮崎にとっては不完全燃焼だった。春夏合わせて甲子園通算8打数3安打とまずまずの結果を残したが、最後は悔し涙も出なかった。

【大学進学後に状況が一変】

 そんな宮崎が運命に導かれたのは大学進学時だ。当初は「もっとできると思っていたのですが、野球でメシが食えるとは思っていませんでした」と振り返ったように、硬式野球からは引退し、準硬式野球(硬式球と中身はほぼ同じだが外側が軟式球と同じ天然ゴムで覆われている球を使用)でのスポーツ推薦制度がある中央大への入学を目指した。

 練習にも参加したが、推薦の要件は「レギュラーであること」となっており、宮崎はそれに該当せず、中央大への進学を断念。系列校の山梨学院大に内部進学することになった。

 図らずも、結果的にこれが功を奏することになる。須田喜照監督は「第一印象はとくにないんですよね」と苦笑いしながらも、「キャッチボールやノックを見ていたら肩は強いし、バッティングで強いスイングをする」とその能力に気づき始め、1年秋からレギュラーに抜擢した。

 久しぶりにレギュラーとして試合に出続けているうちに、自覚も生まれるようになる。2年冬に、翌年からの上位打線への起用を見越してパワーアップに着手。食事とトレーニングにより体重を10キロ増やし、力強い打球を目指した。

 さらに須田監督や伊藤彰コーチから、それまでの流し打ち中心の打撃ではなく「引っ張る打撃もしてみよう」と提案を受けて着手すると、3年秋に大きく開花する。

 9試合で打率.600、5本塁打、19打点、7盗塁の大暴れ。この活躍が認められ、侍ジャパン大学代表候補に選出。合宿でも持ち味を発揮して代表に選ばれると、7月に行なわれた第44回日米大学野球選手権大会に出場した。

 この大会で侍ジャパン大学代表は、アメリカ大学代表を3勝2敗で下し、節目である大会通算20回目の優勝を果たした。

 だが帰国便に乗り込む宮崎の表情は、どこか曇っているように見えた。移動や連戦の疲れだけではないだろう。大会を通して打席に立てたのは、捕手を除いて野手では最も少ない2打席のみ。結果は、空振り三振と四球だった。

 それから1カ月後、山梨学院大のグラウンドに行くと宮崎の姿があった。

「いやぁ、悔しかったですね。いろんな感情を持ちました」

 それは「もっと使ってくれということ?」と問うと、「ハハハ、そうですね」と笑ったあと、「ベンチにいても、出ている選手に負けているとは思わなかったです」と目の色を変えた。つづけて「悔しい思いをした時がスイッチの入る時。成長する時だと思っています」と語った。

 反骨心で道を切り拓いてきたのが、宮崎の野球人生だ。足踏みすることなく、もがきながらさらなる高みを目指す。