元車いすラグビー日本代表で2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックで銅メダルを獲得した官野一彦さん=千葉県袖ケ浦市=は、東京パラでの金メダルを目指したが代表から外れた。でも世界一はあきらめない。新たなチャレンジはパラサイクリング。42…

 元車いすラグビー日本代表で2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックで銅メダルを獲得した官野一彦さん=千葉県袖ケ浦市=は、東京パラでの金メダルを目指したが代表から外れた。でも世界一はあきらめない。新たなチャレンジはパラサイクリング。42歳の闘志は衰えることはない。

 9月28日に木更津市の清見台小学校で開かれた「あすチャレ!ジュニアアカデミー」(日本財団パラスポーツサポートセンター主催)。講師役の官野さんは小学6年生を相手に自らの闘いの日々を語った。

 木更津中央高校(現・木更津総合高校)時代は野球部。強豪校で1年生からレギュラーだったが甲子園には行けなかった。プロは諦め、大学や企業の誘いも断った。次の舞台はサーフィン。「女の子にもてたい、髪を伸ばしたいと思って始めたんだ」と話すと子供たちは大笑いだ。

 毎日、波に乗り腕も上がった。が、2004年4月22日暗転した。波に巻き込まれ頸椎(けいつい)骨折。下半身が動かなくなった。安全のためボードと足を結ぶひもを結んでいなかった。「スポンサーも付いて、てんぐになっていたんだよね」

 病院では不安、恐怖、悲しみに襲われ、周囲に当たり散らし、泣き、死のうかとも思った。

 しかし、母は「この足、動かないんだよね」と足をたたいて明るく笑い飛ばす。「事の重大さがわからないのか」と怒った。入院5日目。深夜、看護で病室に泊まっていた母の鼻をしゃくりあげる音が聞こえた。「どうしたら泣かせないですむか。強く生きよう、頑張ろうと決めた。その後は死にたいと思ったことはない」

 退院後、知人に誘われ車いすラグビーを始めた。車いすをガツン、ガツンとぶつけるのがおもしろかった。

 ロンドン・パラでは4位に。よくやったと思った。だが帰国した空港でロビーに出ようとした時、案内に「メダルの人が先です」と止められた。もみくちゃのメダリストの横をすり抜けた。「メダルをとってチヤホヤされるぞ」と誓った。

 4年後、銅メダルを手にした。うれしかった。が、表彰台で優勝したオーストラリア選手を見て、「やっぱり金だ。しかも次は東京」と目標を上げた。仕事を辞めて英語を話せないのにアメリカのチームに移った。18年の世界選手権で優勝。金が見えてきた。が、自分の考えやプレーと監督の方針がずれてきた。翌年8月、代表から外された。

 それでも頂に登ることは諦めない。今度はパラサイクリング。手で自転車をこぐハンドサイクル・H2クラスだ。「このクラスの選手は日本初。それが始めた動機。『初めての男』って格好いいじゃない」。海外の大会でも勝ち始め、世界ランクは12位に。新たな頂上が見えてきた。何回も挫折を乗り越えた官野さんは最後に「諦めずに、どうやったらできるかを考えろ」と子供たちに伝えた。

 昨年はこうした講演を80回以上こなした。「稼がないとね。海外にも行けないので」とニヤリとする。

 講演後、握手、ハイタッチを求める子供たちが続いた。「夢、挑戦を忘れずに追っているのがすごい。勉強になった」「プロ野球選手を目指している。どんなことがあっても諦めずに血のにじむような努力をする」。講演が稼ぐためだけではないことは、子供たちに確実に伝わっていた。(堤恭太)