森田あゆみ「引退インタビュー」後編「元・天才テニス少女」が引退を決意した切実な理由「指導者になりたいと思ったのは、ケガをしたことも大きかったと思います」 今年8月、テニス競技者からの引退を決意した森田あゆみは、穏やかにそう言った。 プロ転向…

森田あゆみ「引退インタビュー」後編

「元・天才テニス少女」が引退を決意した切実な理由

「指導者になりたいと思ったのは、ケガをしたことも大きかったと思います」

 今年8月、テニス競技者からの引退を決意した森田あゆみは、穏やかにそう言った。

 プロ転向した15歳時に全日本テニス選手権を制し、33歳で幕を引いた19年間のキャリア。ただ、その後半は、度重なるケガとの戦いでもあった。

 かつて「天才少女」と呼ばれたその能力は、いかにして培われたのか? そして今、新たなキャリアを歩みだす彼女が、自身の経験から何を後進たちに伝えようとしているのか?

 テニスとの出会いから未来の青写真までを、本人に紐解いてもらった。

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引退を決断した森田あゆみの本音は?(写真●JET田中)

「テニスに出会ったのは、7歳の時です。両親が休みの日にテニスをしていたので、遊びについていったのが始まりでした。最初は地元のテニススクールに行ったんですが、1年でそこが閉まってしまったんです。それで8歳からは、高崎テニスクラブに行くようになりました。

 私は最初、プロを目指すつもりとかはぜんぜんなくて。本当に遊びの延長、習い事のひとつとして始めたんです。ただ、高崎の松田貞男コーチが『この子はセンスがあるから、もっとレッスンを受けたほうがいい』と母親に言ったそうです。家からはちょっと遠かったんですが、気づいたら週に5回は通うようになっていました」

 群馬県太田市出身の少女がとなり町まで足を運んだ理由は、偶然の巡り合わせだった。幸運にも駆け込んだ高崎テニスクラブは、プロ選手も輩出している地元の名門クラブ。

 そのクラブに移った時、森田はラケットの握り(グリップ)を変えている。

 テニスを始めた当初の森田は、フォアもバックも同じグリップ(右手が下)で打っていた。その握りを、フォアの時は右手を上に変える。このグリップでの両手打ちは、その後も変わることはなく、森田の強打を支えた。

【世界を知っているコーチのところに行ったほうがいい】

「高崎に移った時、コーチにすぐにグリップは直されました。高崎テニスクラブの先輩の飯島久美子さん(単最高位182位)が、やはり両手打ちでグリップは持ち替えだったんです。それもあってか、そこだけは直されましたが、あとはとにかく『思いっきり打て』って言われてました。

 コーチの息子さんの松田隼十くん(現テニスツアーコーチ)とは同じ学年だったので、本当に毎日、ずっと彼と一緒に練習していました。今の高崎テニスクラブはプロ選手がたくさんいますが、当時はそこまででもなかったので、プライベートや少人数でレッスンを受けられたんです。

 あとは本当に結果を気にせず、伸び伸びとやらせてもらえた。ベースとなるテニスは、高崎で作ってもらえました。あの年代の自分には、それがすごく合っていたと思います」

 伸び伸びと振るう両腕で、森田少女は次々と勝利を掴み取っていった。

 同世代では「国内敵なし」となった彼女が、世界へと続く新たな扉を叩いたのは、中学2年生の秋。行先は、神奈川県の茅ヶ崎。杉山愛が拠点とし、母の杉山芙沙子さんが運営する「パーム・インターナショナル・テニス・アカデミー」である。

「パームに移ったのは13歳の時です。その頃から、プロになりたいなって思い始めていましたが、群馬では練習相手もいなくなっていた。高崎の松田コーチも『世界を目指すなら、自分にはここから先のことはわからない。世界を知っているコーチのところに行ったほうがいい』と母親に言ったそうなんです。

 それで母親がコーチを探していた時に、たまたまテニス雑誌で丸山(淳一)コーチのインタビューを読み、『この方の考え方が私には合っている』と思ったそうです。その頃の私は、ナショナルチームのコーチたちからは『打ちすぎだ』って言われていたんです。もっとミスを減らすようにと......私はあまり聞いてなかったんですけど(笑)。

 でも、丸山コーチの指導論はそうではなかった。そこでパームに行って、丸山コーチのプライベートレッスンを2時間受けさせてもらったら、私はもう『このコーチに教わりたい、ここでやりたい!』と思って。その場で決めました」



引退セレモニーで森田を労う杉山愛(写真提供●安藤証券オープン東京2023)

【杉山愛との練習で『世界の30位はこんな感じなんだ』】

「実は私、そこが杉山愛さんのところだと知らなかったんです」──。そう振り返る森田は、恥ずかしそうに笑う。丸山淳一氏は杉山愛をはじめ、フェドカップ(女子国別対抗戦)代表コーチ等の歴任者だ。

 その人物に師事したいと即決した理由は、今でもよくわからないという。ひとつ確かなのは、新たな指導者と環境を得て、彼女はひと足飛びに世界への階段を駆け上がったことだ。

「パームに移った頃からは、自分が何をしていくべきかがわかったので、これから戦っていくうえで必要なことに取り組んでいました。

 それができたのは、本当に環境のおかげだと思うんです。世界を知っている丸山コーチが常にいて、世界で上に行くために必要なトレーニングとかも自然と一緒にやってくれる。プロになって試合に出るようになってからは、杉山(愛)さんが近くにいた。

 杉山さんとは、同じ大会に出る時は一緒に練習してもらえたし、ダブルスも組んでもらえました。自分に足りないものがはっきり見えていたのも、若いうちから杉山さんと打つ機会があったからだと思います。当時の杉山さんは30位に入っていたので、『世界の30位はこんな感じなんだ』というのを知ることができました」

 同世代の友人たちが遊んでいる姿を見ても、「自分の生活が充実していたので、遊びたいと思わなかった。テニスが嫌いになったことは、たぶんないんじゃないかな」とさらりと言う。

 ただ、本人が振り返るプロキャリアは、必ずしも耳に優しいものだけではない。

 イップスに陥り、「ネット手前でバウンドしちゃう」サーブを重ねた試合もあった。なにより、25歳で手首にメスを入れるその以前から、常にケガには悩まされ続けた。それでも彼女はそれらの日々に、"苦闘"などのレッテルを貼ることはない。

「もどかしいこともあったけれど、でも、充実していたのは間違いない。いろんなことがありつつも、自分の好きなことを日々、全力でできている。

 ケガはないほうがたしかにいいですが、でも、ケガをしたら目標ができて、それをクリアするために毎日ベストを尽くす。基本、やっていることは試合と変わらないというか。自分で課題を見つけて、目標を立てて、それに向かって日々頑張るというところは同じですから」

【ケガをして、上も見て下も見られてよかった】

 結果的に度重なるケガは、森田の選手生命を短くしたかもしれない。それでも「やれることは、やりきったなって思いました」と、彼女は笑顔をのぞかせた。

 少女時代から「自分のやるべきことがわかっていた」と言う彼女は、これから進むべき道もわかっている。丸山淳一コーチとともに、この秋にもまずはふたりで「指導者チーム」を立ち上げる。指導対象は問わない。自分たちの助けを必要とする者になら、誰にでも手を差し伸べるつもりだという。

「本当に、ジュニアでも若手の選手でも構わない。一番に伝えたいことは、楽しんでのびのびやってほしいということです。もちろん結果も大事ですが、結果を出すためにも、試合でも練習でも日々楽しくやることが、まずは大事だと思います。

 そのあとは、強くなるために今の自分には何が必要で、これから何をしていくべきかを認識し、それを日々意識しながら取り組みを続けてくことが、重要なんじゃないかなと思います。そこがわからないまま頑張るだけでは、目標に到達するのはたぶん、すごく難しいと思うので。

 自分が指導していくうえでは、こういうことが必要だよと一方的に言うだけではなく、コミュニケーションを取りながら、選手自身がそこをちゃんと理解して、前向きに取り組めるように育てていきたいなって思います。それができると、試合のコートでも自分で何をやるべきかわかると思うんですよね」

 そのような指導理論を信じられるのは、自身が恵まれた環境のなかで、優れた指導者に出会えたという感謝があるから。

 そしてグランドスラムなどのトップステージの煌びやかさも、下部大会の過酷さも知っているからだ。

「2年ほど前から、選手を辞めたら育成とかをしてみたいという思いは、ずっとあったんです。そう思えたのは、ケガをしたことが大きかったと思います。

 ケガをしていた時に下部大会に行って、苦労している若い選手の姿も見た。そのクラスの大会だと、みんなコーチをつけられず、ひとりで遠征に行っている。そういう選手たちをたくさん見て、何かサポートできたらなと思ったのが、自分がコーチをやりたいと思ったきっかけです。そういう意味では、上も見て下も見られてよかったなって、今は思います」

 少しテニスから離れて、ゆっくりしたいとは思わないのか──?

 そんな素朴な疑問を向けると、「思わないんです。遊んでいるより、何か頑張っているほうが好きなので!」と、屈託ない笑みが返ってきた。

 彼女は引退を終わりではなく、新たなキャリアの始まりと捉えている風情だ。勝利の歓喜も、ケガの苦汁も、味わった自身の経験を未来へつなぐため、選んだ道へと歩みを進めていく。

<了>

【profile】
森田あゆみ(もりた・あゆみ)
1990年3月11日生まれ、群馬県太田市出身。2004年、史上最年少14歳(中学3年生)で全日本テニス選手権ベスト8入りを果たし、「天才テニス少女」と呼ばれる。2015年4月には当時日本人最年少15歳1カ月でプロ選手となり、その2カ月後に全仏OP女子ジュニアで準優勝。日本人スポーツ選手として初めてアディダスとグローバル選手契約を締結する。2011年10月に自己最高の世界ランキング40位を記録するも、2014年から故障によって何度もツアー離脱を余儀なくされる。2023年8月に現役引退を発表。身長164cm。右利き。