オグリキャップを下して宝塚記念を制したオサイチジョージ“正攻法”の競馬、というものがある。 先行して、逃げ馬を射程圏にとらえ、4角辺りで抜け出しを図り、あとは直線に入ってから引き離す。 ひと言で言って、スキがない…



オグリキャップを下して宝塚記念を制したオサイチジョージ

“正攻法”の競馬、というものがある。

 先行して、逃げ馬を射程圏にとらえ、4角辺りで抜け出しを図り、あとは直線に入ってから引き離す。

 ひと言で言って、スキがない。

 関西のある騎手が、「この競馬で勝てる馬が、一番強い」と言った。

「一番強い」かどうかはわからないが、この戦法を得意とした馬に、オサイチジョージという馬がいた。

 1990年のGI宝塚記念(阪神・芝2200m)を勝った馬。というよりも、その宝塚記念で、あのオグリキャップを2着に負かした馬、といったほうが思い出す方も多いだろう。

 1988年にデビューして、この宝塚記念まで15戦8勝、2着4回、3着2回(宝塚記念を含む)。距離が合わなかった菊花賞での大敗(12着)を除けば、すべて3着以内の馬券圏内に絡んできた優秀な馬だ。

 当時、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの「3強」と言われた時代。その陰に隠れて、オサイチジョージは決して目立った存在ではなかったが、十分にA級馬の実力を備えていた。

 この馬が競走馬として最も輝いていた、いわゆる「旬」の時期が宝塚記念を勝った1990年の上半期。このとき、「勢いを得た”上がり馬”とは、これほどまでに強くなるのか」と感嘆させられるほど、素晴らしい成績を残す。

 明け5歳(当時)と古馬になったこの年、オサイチジョージはいきなり重賞を2連勝した。年明け早々のGIII京都金杯(京都・芝2000m)と、以前は春先に開催されていたGIII中京記念(中京・芝2000m)である。

 今週末、中京競馬場で中京記念(7月23日/芝1600m)が行なわれるが、27年前の勝ち馬がオサイチジョージだった。

 それは、まさに”上がり馬”の勢いを示すレースとして記憶に残る一戦となった。

 このレース、オサイチジョージは斤量58.5kgというトップハンデを背負っていた。けれども、委細構わず、いつもの正攻法の競馬に出る。

 道中は逃げ馬を射程圏にとらえて3~4番手を追走。いつものように4角あたりで押し上げて、先頭に出る。

 今回も横綱相撲か――そう思った瞬間、何かがすごい勢いでまくってくるのが見えた。タニノスイセイという、単勝13番人気の馬だった。人気薄の気楽さから、捨て身の末脚勝負にかけてきたのだ。

 しかし、オサイチジョージはその猛追をアタマ差しのいで、先頭でゴール板を通過した。

 レースの上がりタイムを見ると、豪快にまくってきたタニノスイセイより、先行したオサイチジョージのほうがコンマ1秒速かった。追い込んだタニノスイセイにしてみれば、前を行っていた馬に自分より速い上がりを使われては、もはやなす術(すべ)はなかった。

 言うなれば、”正攻法”という戦法の確かさを、まさにオサイチジョージが実演してみせた一戦だった。

 その後、オサイチジョージはGI戦線へと駒を進め、安田記念(東京・芝1600m)でオグリキャップに挑戦する。結果は、オグリキャップが完勝し、オサイチジョージは2馬身+クビ差の3着に敗れた。

 しかし、陣営は悲観していなかった。なぜなら、このときのオサイチジョージは、自身が最も得意とする”正攻法”の競馬ではなく、オグリキャップの後ろから追い込むという”よそ行き”の競馬で敗れたからだ。

 そして、続く宝塚記念では道中2番手を追走。いつもの”正攻法”の競馬を実践し、今度はオグリキャップを3馬身半も引き離して快勝した。

 ただ、レース後は「なぜオグリは負けたのか」という話題で持ち切りだった。勝ったオサイチジョージより、負けたオグリキャップのほうに……というよりも、完全にメディアやファンの関心はその1点に集中してしまった。

 オグリキャップが負けた理由ははっきりしていた。”正攻法”の競馬をしたときの、オサイチジョージが強かったからだ。

 その後もオサイチジョージは現役を続行したが、以降は8戦して、二度と勝ち負けを演じることはなかった。馬券圏内に絡むことさえ、一度もなかった。

 まるで「あの宝塚記念で燃え尽きたようだ」と、今なお語り継がれている。

 それでも、”正攻法”で勝つ競馬の強さ、その代表格であるオサイチジョージのことは、多くの人々が覚えているだろう。そして私も、中京記念というと、なぜか同馬のことを思い出す。