サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「大事なのは帽子ではなく、その中身」―。

■日本で生まれた大記録

 さて、Jリーグでハットトリックと言えば中山雅史である。ジュビロ磐田に所属していた中山は、1998年にJリーグで4試合連続ハットトリックというとんでもない記録を残した。1998年のJリーグ第1ステージ、初出場のワールドカップ・フランス大会を目前にしたころのことである。

 4月15日(第6節)のセレッソ大阪戦(9-1、アウェー)で5点、18日(第7節)のサンフレッチェ広島戦(5-0、ホーム)で4点、25日(第8節)のアビスパ福岡戦(7-1、アウェー=熊本)で再び4点、そして29日(第9節)のコンサドーレ札幌戦(4-0、ホーム)で3点。4試合で16ゴールという荒稼ぎである。当然、この記録はプロとしての世界で初めての記録であり、「ギネスブック」にも記載された。

 ただこれは、現在では更新されているらしい。2016年の11月にクロアチア東部のジャコボをホームとするドラーチチェ・ジャコボのFWスティパン・ルチヤニッチがNKズリンスキ・ドレニエに10-0で勝った試合で5得点を記録、これが5試合連続のハットトリックとなって中山の記録を破ったというのである。

 ドラーチチェはクロアチアのトップリーグから数えると「7部」に相当するジャコボ・リーグに所属するクラブ。それでもプロであるという。この勝利でドラーチチェは11戦全勝。ルチヤニッチは開幕戦では6ゴールを挙げていた。しかし彼は1984年生まれで当時すでに32歳。額は広く、お腹も太めの選手だった。どこにこんな力があったのだろうか。

■明確なチームの意図

 さて中山の話に戻ろう。1990年代終盤から21世紀初頭にかけてのジュビロ磐田は非常に強く、Jリーグでは1997年と2002年に優勝。1999年にアジア・チャンピオンにも輝いている。その他の年もJリーグでステージ優勝を果たすなど、常に優勝争いの主役を演じていた。ブラジル代表の闘将ドゥンガが鍛えた藤田俊哉や名波浩が中盤をつくり、圧倒的な攻撃力をもっていたのである。

 中山は上記4試合でシュートを合計23本放ち、そのうち16本を決めるという超人的な決定力でその攻撃の締めくくりをしていたわけだが、磐田がチームとして圧倒的な優位に立って試合を進めるという状況がなければ、「4試合連続」どころか、1回のハットトリックも難しかっただろう。そして何よりも、このころの磐田には、「いい形でゴン(中山)に回してゴールを取ろう」という明確な意図があった。

 4試合目のハットトリックは、札幌戦の終盤、後半36分に達成された。磐田がそれまでの3試合で計21得点、中山ひとりで13点も取っていれば、相手は当然警戒する。札幌のウルグアイ人監督ウーゴ・フェルナンデスも、3-6-1システムで徹底的に守備を固めた。磐田は前半41分にドゥンガの右CKを田中誠が頭で落とし、ファーポストで中山が叩き込んで先制したが、相手の徹底守備に手を焼いた感のある前半だった。

■「ゴンさんに取らせる」

 しかし0-1の状況で守っているわけにはいかない。後半、札幌はウーゴ・マラドーナを押し出して積極的な姿勢をとったが、これが磐田の攻撃力に火をつけ、24分にシュートのリバウンドを藤田が決めて2点目、さらに27分にはPKを中山が左隅にけり込んで3-0と差を広げた。そして36分、奥大介のパスを受けた中山が「大記録」をつくるのである。

 中央で名波からドゥンガへ、そしてドゥンガがワンタッチで最前線の奥大介にパスを送り、奥がペナルティーエリアに侵入。背後から渡辺卓、右から当初中山をマークしていた木山隆之と、札幌の2人の選手が迫る。このとき中山は得意の「プルアウェー」の動きで右に開いてフリーになっていた。だが奥の技術をもってすれば自分で左足シュートにもち込むのが自然な形だったし、それを決めきる自信も十分あっただろう。

 しかし奥の選択は「ゴンさんにハットトリックを取らせる」だった。シュートのブロックにきた木山の逆をとり、右足アウトサイドで中山の前のスペースにボールを送ったのだ。中山がこのチャンスを逃すはずはなかった。鋭くボールに詰め寄ると、右足インサイドでGKディド・ハーフナーを破り、ゴールに流し込んだのである。

 ハットトリックはすばらしい業績である。しかしサッカーはあくまでチームゲーム。すべてのゴールは、チーム全員の献身の結果にすぎない。私たちは、どんなときにもそれを忘れるべきではない。

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