2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第21回・鈴木健吾(神奈川大学―富士通)前編



第93回箱根駅伝2区区間賞を取った鈴木健吾

「箱根駅伝に出たかったので、関東の大学へ行きたいと思っていました」

 のちに学生トップランナーとなる鈴木健吾が愛媛県の宇和島東高校から進学したのは、神奈川大学だった。

「高3の時にインターハイには出場しましたが、長距離ランナーとしての実績(記録)がありませんでした。そんな中でも神奈川大学は結果が出る前から声をかけてくださり、僕らと同期のスカウティングもうまくいっているのを聞いていたのでチャレンジしたいと思って決めました」

 鈴木を始め、大川一成、鈴木祐希、大塚倭ら有望な選手が入学し、彼らの成長がやがて82回大会以来のシード権獲得(2017年)という目標達成につながっていく。

 鈴木が入学して、最初に不安に感じたのは、生活環境だった。

「僕は中学高校と自宅からの通学だったので、寮生活を経験したことがなかったんです。入寮すると1年生はやることが多く、たとえば朝練習は先輩たちよりも30~40分早く起きて、練習道具を用意していました。その際に先輩を起こさないように部屋を出ていくのですが、朝が弱い僕は逆に先輩に気を遣わせてしまっていました(苦笑)」

 掃除や練習の準備などすべきことが多々あり、環境に慣れるのには少し時間が必要だったが、鈴木は先輩たちに可愛がれ、上下関係でストレスを感じることはなかった。

 競技面では神奈川大学の質の高い練習についていくことが大変で、なかでも朝練習には苦労した。

「高校の時も朝練習はあったんですけど、朝ごはんを食べてから練習していました。大学の朝練習は1時間程度だったのでそんなにキツくはありませんでしたが、朝ご飯を食べずに走るので、最初はエネルギー切れのようになりしんどかったですね」

 1年目、チームの上半期の目標は全日本大学駅伝の予選会を突破することだった。鈴木にとって、その予選会に出ることは「ステップアップのために大事なこと」と捉えていた。10名のエントリーリストに入ることはできたが、予選会前日にメンバーの8名には入れず、補欠に回った。

「補欠に回ったことも悔しかったんですが、予選会の最終組が終わった後、補欠の選手でオープン組として走る予定だったんです。そこで走っていればチームでの自分の立ち位置など含めて得られるものが大きかったんですが、天候が悪くなって中止になってしまいました。そのときは何も得ることができず、悔しさしかなかったですね」

【初めての箱根は山の寒さで体が動かず......】

 全日本の予選会は出走できなかったが、箱根駅伝予選会で鈴木は個人で33位(60分38秒)、チーム4位という結果を出し、トップ通過に貢献した。この走りで大後栄治監督から高い評価を得た鈴木は箱根駅伝で6区を任され、出走することになる。

「状況的に6区を走る選手がいなかったので、監督から『ちょっとやってみないか』と言われ、僕としてはどこでも走りたい気持ちがあったので『走ります』と返答しました。これまでのレースでも6区のような強烈な下りを走ったことがなかったので、不安はありました」

 鈴木が即答したのは箱根を走りたかったのもあるが、山の5区と6区に憧れていたからだ。子供の頃、「初代・山の神」の今井正人(順大)が5区で見せた走りに魅せられた。箱根駅伝といえば山という印象が強い鈴木にとって大後監督からの打診は憧れの区間を走れる喜びがあった。

「大会当日はやってやろうと思ったんですが、箱根の山の寒さは本当にすごくて(苦笑)。スタートした時、体がぜんぜん動きませんでした」

 1年目は箱根(第91回)の厳しい寒さの洗礼を受け、6区19位に終わった。初めての箱根駅伝を終えた後、鈴木は箱根で勝つために必要な事があらためて見えてきたという。

「1年の時は往路が14位と振るわず、復路もそのままズルズルいってしまい総合17位でした。あらためて往路の重要性をすごく感じましたし、そのなかでも2区は箱根で結果を残すためにはすごく重要だと理解することができました。それから僕の中では『次は2区で』という思いが強くなっていきました」

 2年目の箱根(第92回)は、希望どおりに2区を走れたが、区間14位、チームは総合13位に終わり、シード権には届かなかった。

「初めての2区は抜きもせず、抜かれもせず、ただ走っていたみたいな感じで、前との差が開いてしまって何もできなかった。強い選手と走ってみてタイム差が明確に出たので、このままじゃダメだというのをすごく感じました」

 東洋大の服部勇馬、駒大の工藤有生や順大の塩尻和也ら強い選手と走る中、トップの服部には3分17秒の差を付けられた。この差をどう埋めていくのか、大きな課題を突き付けられた。

 3年時は、鈴木にとって飛躍のシーズンになった。

 4月の世田谷競技会での5000mは13分57秒88、関東インカレ10000mでは28分50秒13秒の3位、続くホクレン北見大会の10000mで大学記録となる28分30秒16でPB(パーソナルベスト)を更新した。一気にブレイクしたことに対して、鈴木自身は「何か特別なことをしたわけではない」と語るが、日常のジョグの距離を変えていた。

「1年目は何もわからないのでチームの流れでやっていて、2年目はその流れに慣れてきたんです。3年目は、それに自分なりのアレンジを加えました。それがジョグの走る距離です。ポイント練習以外の走る練習では距離や時間などは決まっていないので、長く走る人もいれば、短い人もいるんですが、僕はジョグに関しては人一倍長く走っていました。それが積み重なって走れるようになってきたのかなと思います」

【2区区間賞、12年ぶりのシード権奪還へ】

 鈴木はジョグへのこだわりが強く、箱根駅伝予選会で日本人トップになった翌日も朝から30キロ走っていたという。もはや鉄人レベルだが、ジョグが鈴木の強さを形成していったのは間違いなかった。

 また、3年時に駅伝主将を任されたことも大きかった。

「4年生から、僕ら3年生にチームを引っ張っていってほしいという話になり、僕が主将に抜擢されたのですが、僕はキャプテンシーがあるタイプじゃないですし、チームを引っ張るのは苦手でした。でも同期のマネージャーがすごくできる人で、細かいことは彼が責任を持ってやってくれました。僕は走って結果を残すことに専念したので、それが良かったと思います」

 鈴木が主将としてチームを牽引していくなか、4年生のサポートも非常に大きかった。チームを支える気持ちで鈴木への協力を惜しまなかった東瑞基や朝倉健太らの後押しもあり、鈴木は2区区間賞、チームは総合5位で12年ぶりにシード権を獲得した。

「僕は主将としての務めを果たせた満足感でいっぱいでした。個人としても2区区間賞を獲れましたし、そこでの走りで多くの人に名前を知ってもらった。箱根で一番気持ちよく走れましたし、結果も出た。もっとも印象に起こる箱根になりました」

 チームは2年連続でのシード獲得に向け動き出したが、鈴木は3月の学生ハーフで優勝した後、故障した。なんとか体調を戻し、夏のユニバーシアードハーフマラソンでは3位と、調子を戻しつつあった。しかし、10月の出雲駅伝は「まだダメだ」と大後監督に言われ、チームから離れて10月から伊豆大島での個人合宿で走り込み中心のメニューをこなし、11月の全日本大学駅伝で復帰した。

 だが、大会前、昨年とは明らかに違う空気が鈴木を覆っていた。

「3年の時、2区で区間賞を獲ってから周囲の目が変ったなと思いました。注目されることは嬉しいのですが、そこで自分が浮足立ってしまうんじゃないかといろいろ考えてしまいました。箱根が近づくにつれて取材とかもすごく増えていって...。僕は4年生で駅伝主将としてもチームのことを考えないといけないですし、練習にも集中しないといけない。普段と違うことでの疲労感を感じ、自分自身が削られているような感覚がありました」

 注目された最後の箱根駅伝は2区4位、チームは総合13位となり、2年連続でのシード権獲得には至らなかった。

 箱根駅伝は鈴木にとって、どんな大会だったのだろうか。

「箱根を4年間走って思ったのは、20キロの距離を走れたことがその後、マラソンを走る上ですごく大きかったです。メディアの影響力もありますが、これだけ注目される大会ってなかなかないですし、そこで結果を出すことで僕の名前が全国に広がった。いろんな意味で自分を大きく変えてくれたのが箱根駅伝でした」

後編に続く>>鈴木健吾が明かす「マラソン日本記録保持者の苦しさ」 妻の一山麻緒もマラソンでパリ五輪を目指す

【プロフィール】
鈴木健吾 すずき・けんご 
1995年6月11日、愛媛県宇和島市生まれ。小学校6年時から陸上を始め、宇和島東高校から神奈川大学へと進学。箱根駅伝では1年時より6区を務め、2年以降は3年連続で2区を好走。富士通に進んだのち、第76回びわ湖毎日マラソンにて2時間04分56秒の日本新記録を樹立した。