ラグビー日本代表の元通訳・佐藤秀典インタビュー 前編元ラグビー日本代表HCエディー・ジョーンズ(右手前)と通訳を務める佐藤秀典(左手前) いよいよ9月の開幕が間近に迫ってきたラグビーワールドカップ。その直近2大会で、ラグビー日本代表は世界を…

ラグビー日本代表の元通訳・佐藤秀典インタビュー 前編



元ラグビー日本代表HCエディー・ジョーンズ(右手前)と通訳を務める佐藤秀典(左手前)

 いよいよ9月の開幕が間近に迫ってきたラグビーワールドカップ。その直近2大会で、ラグビー日本代表は世界を大いに驚かせる輝かしい結果を残した。2011年大会までの7大会の通算成績は1勝21敗2分けと、勝利があまりに遠かったにもかかわらず、2015年のイングランド大会では強豪である南アフリカからの歴史的勝利を含む3勝(1敗)、そして2019年の日本大会ではプール戦4戦全勝で決勝トーナメント初進出(準々決勝で南アフリカに敗戦)。強豪国への仲間入りを果たしたと表現して差し支えない大躍進を見せた。

 記憶に新しいこの2大会で日本代表の通訳を務めたのが、選手たちから「ヒデさん」の愛称で慕われた佐藤秀典さんだ。2015年はエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)、2016年から2019年まではジェイミー・ジョセフHCの下、外国人と日本人を言葉でつなぐ役割を全うし、勝利に貢献した。リーグワン2022-23シーズンは横浜キヤノンイーグルスの通訳に8年ぶりに復帰し、史上初の3位という結果をつかんだチームを下支えした。

 通訳としての能力を培ったのは、少年時代の渡豪やラグビー経験はもちろん、佐藤さんのもう一つの顔であるデスメタルバンド「INFERNAL REVULSION(悪魔的憎悪)」の一員としての活動や、若き日の雑貨屋での商談などの経験だという。日本代表の通訳を務めるに至るまでの足跡、そして通訳としての技量につながったエピソード、ワールドカップと日本代表選手への思いを前後編の二部構成でお届けする。

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──オーストラリアのゴールドコーストでラグビーを始めたそうですね。

「はい。小学生時代に移住したのですが、周りのみんながタッチラグビー(タックルをしない代わりに相手に触ってプレーを止めるラグビー)をやっていたので、僕も自ずとハマっていきました。当時のラグビー経験が今の仕事に生きています」

──その頃から音楽も好きだったのでしょうか?

「小6か中1くらいで音楽に出会い、そこからは完全に傾倒していきました。特に、30年前からデスメタルのパイオニア的存在で、海外のライブでは数万人を集めるアメリカの『カンニバル・コープス』というデスメタルバンドの作品を聞いていました。実は後に、そのバンドと一緒にジャパンツアーを回ることになります。2014年のことでしたが、ひとつの夢が叶った瞬間でした」

──通訳やバンドの活動を始める前には、大阪のお店で働いていたそうですね。

「18歳の時、大阪のアメリカ村で雑貨屋を展開している方とオーストラリアで知り合い、そこで働きたいと希望を伝えて日本に帰ってきました。その雑貨屋が海外から商品を買いつけていたので商談の通訳をやらせていただき、シルバーアクセサリーのバイヤーを務めながら、雑誌とタイアップした際にはアーティストの通訳をしていました。

 そこで『自分にはこういう能力があるんだ』と気づき、こういう仕事でキャリアを伸ばしていけるんじゃないか、と考えるようになりました。今の仕事につながる大きなきっかけです」



デスメタルバンドのボーカルを務める佐藤秀典

──現在は横浜キヤノンイーグルスの通訳を務めていますが、最初は2009年に就任され、2014年に一度退団される際に「音楽に専念したい」と考えていたそうですね。

「はい。海外からワールドツアーのオファーをいただき、そこで一発勝負しようと考えていたのですが、契約書まで交わしたのに先方の問題で白紙になってしまいました。これからどうしよう、と思っていた時に、エディーさんから『ワールドカップで日本代表の通訳をやらないか? 勝ちたいから一緒にやろう』というメッセージをいただいたんです。これは運命だ、と思ってエディーさんに会いに行き『やります』と答えました。

 もしワールドツアーに行っていたら代表の通訳にはなっていなかったでしょう。実は(エディー氏が日本代表HCに就任した)2012年にも声をかけていただいたのですが、当時はバンドとキヤノンに専念していたのでお断りしたんです」

──もともとエディーさんとは接点があったのですね。

「キヤノン在籍時に(エディー氏がHCを務めていた)サントリーさんとの合同練習などの打ち合わせで通訳を務めたのですが、その時からエディーさんは気にかけてくれていました」

──ワールドカップイヤーの2015年、正式に日本代表の通訳に就任されました。

「覚悟して臨みました。任期は180日間でしたが、当時は必死でしたから3年間ぐらいに感じました(笑)。エディーさんが激しい叱咤激励の言葉を使うことは知っていましたので、エディーさんの言葉を薄めることなく、しっかりと選手に伝えるよう努めました。僕には表現をマイルドにする権利は一切ないですし、エディーさんが言わんとすることをしっかりと日本人選手の心に刺さるように伝えていました」

──そのためには日本語の語彙力が求められます。

「ボキャブラリーが豊かだと言っていただけることが多いのですが、もともと言葉が大好きでたくさんインプットしてきた、というわけでもないんです。でもそう評価していただけるのは、これまで様々なアーティストが発する言葉を意識して聞いてきたからだと思いますし、メッセージの発信の仕方も身についていたのかなと思います」

──メッセージの発信という点では、佐藤さんのバンド活動とも大きく関連していそうです。佐藤さんは作詞を担当されているのでしょうか?

「はい。リリックは僕が英語で書いています。デスメタルはメッセージ性が強く暴力的な音楽ジャンルなので、ステージ上でお客さんをアジテートする際には強い言葉を使って叫びます。それはラグビーのように激しいスポーツをする選手を鼓舞する時に使うパワーワード、フレーズに通ずるものがあると思っています」

──相手に物事を伝える上では声質も大事です。ボーカリストとしての経験が生きた部分ではないでしょうか?

「そうですね。中学ぐらいから声が低かったのですが、よく通り、よく響く声だと周りからは言っていただきました。デスメタルなどのジャンルは激しく叫びますので、必然的に腹式呼吸ができるようになります。それによって普段も声が前に出ているんだと思います。

 ノイズがある中でも一番通るこのバリトンボイスは、通訳においても効果的だと感じています。聞き取りやすい声とそうでない声はどうしてもあるのですが、ミーティングなどで通訳の声が聞き取りづらかった場合、話を集中して聞くのは大変ですし、聞き手は集中力を保てません。だからこの声を持っていてよかったです。バンドのフロントマンとしてステージ上で大衆に向けてメッセージを発することに慣れていたのも大きかったと思います。

 また、2019年のワールドカップ終了後は専門学校の教壇に立って、学生に向けて授業することでもいろいろなスキルが身につき、自分が話者となることで(コーチなどの)話す側の気持ちもわかるようになりました。それを2年やってからラグビーの現場(横浜キヤノンイーグルス)に戻ってきて再び通訳を務めたところ、以前よりもプレゼンテーション能力が上がっていましたし、言葉のチョイスや英語のブラッシュアップもより進んでいました。いろいろなピースが全部うまくハマったことが、昨季のリーグワンの結果(3位)につながったのではないかと思っています」

後編:「ラグビー日本代表の元通訳が振り返る「ブライトンの奇跡」 エディーHCから「ちゃんとPGを選択しろと伝えたのか!?」と聞かれて不安になった」に続く

【profile】
佐藤 秀典(さとう・ひでのり)
1981年3月28日生まれ、東京都渋谷区出身。横浜キヤノンイーグルス通訳。小学生の時に家族で移住したオーストラリアでラグビーに夢中になった後、徐々にデスメタルに傾倒。帰国後、トップリーグのワールドやキヤノンで2014年まで通訳を務めた後、2015年から2019年まで日本代表の通訳。NTTドコモ、スーパーラグビーのサンウルブズでも通訳を務めた。株式会社EHB International代表。履正社国際医療スポーツ専門学校「スポーツ外国語学科」学科長。デスメタルバンド「INFERNAL REVULSION」ボーカル。