5人目のリレーメンバーが見ていた景色 伊東浩司 編(前編)陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人がリ…

5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 伊東浩司 編(前編)

陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しないことが多い。その日の戦術やコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。走れなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか――。

走ることは叶わなかったが、マイルリレー(1600m)要員として、1992年バルセロナ五輪代表に初選出された伊東浩司氏に本番レースまでの道のりと、今だからこそ話せる当時の感情を聞いた。

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当時を振り返り語ってくれた伊東浩司氏

 初出場だった1992年バルセロナ五輪。日本選手権400m5位で4×400m(1600m)リレーの代表に選ばれた伊東浩司(当時・富士通)は、「予選、準決勝、決勝の3ラウンドだったら予選くらいは走れるかもしれない」と考えていた。しかし実際は予選、決勝の2ラウンドしか行なわれず、伊東の出番はなかった。

「メンバー発表があったのはレース当日の3時間前でしたが、400mハードルの斉藤嘉彦くん(当時・法政大)が入り、僕と一緒に外れた大森盛一(当時・日本大/日本選手権4位)が怒っていたというのが記憶にあるだけ。『チームのために何かをやろう』という気持ちにはなれなかったし、何かをやった記憶もないですね。当時、応援している姿を映像に撮られていたようだけどその記憶もなくて、誰かから『ゼッケンを捨てていた』と言われたけど、捨てた記憶もないんです」

 こう振り返る伊東は、当時の熱量を持って話を続ける。

「みんなはよく、『これもいい経験だから』と言いますが、それはないですね。アスリートは走らなければ、経験もへったくれもないと思っていました」

【目標であり壁であった、高野進】

 兵庫県報徳学園高校3年時に、当時400mで日本ジュニア記録(46秒52)を出した伊東は、1988年には400mで充実期に入っていた高野進がいる東海大に進学した。だが高野の存在はあまりに遠く、「かけ声を掛けながらジョギングをしていた高校時代から、いきなりアスリートの世界に入って戸惑いがあった」と、ギャップのなかで伸び悩んだ。

 殻を破るきっかけは、4年生になった1991年4月、200mで手動掲示20秒8(電動計時も含めた日本歴代6位)を出したことだった。そして、5月のスーパー陸上の400mでは世界陸上東京大会のB標準記録を突破する46秒53で日本人トップになる。そのあとはケガで6月の日本選手権は欠場したものの、8月の南部記念で日本人1位になり、世界選手権1600mリレーの代表に滑り込んだ。

「あの頃は『リレーで代表入り』という意識はあまりなかったですね。ただ、世界選手権東京大会に向けては、少しでも活躍できるようにと多人数で全日本の合宿をたくさん行なっていて、そのメンバーには入っていました。当時の400mは日本からは遠い世界で、87年の世界選手権も88年ソウル五輪も高野さんのみの出場。高野さんが44秒台に入っていても、次の集団のタイムは46秒台で高野さんが圧倒的でした。1600mリレーは4継(4×100mリレー)よりも、決勝進出の可能性は高いと思われていましたが、それは高野さんがいるから。高野さんに(世界大会へ)連れて行ってもらっているという感覚でした」

 それでも世界選手権には1600mリレーの予選第1組に4走として出場。3分01秒26のアジア新をマークした。だがそれでも達成感はなかった。強豪のアメリカ、ジャマイカ、ドイツと同じ組。400m決勝進出の2走の高野が順位を3位に上げて、その順位でバトンを受け、45秒3とまずまずのラップタイムで走ったが、ドイツに抜かれて4位に落ちたからだ。

 全体の記録では7位ながらも敗退する惜しい結果。それでも伊東は「悔しいというよりも、先に走った1走の小中富公一さんと高野さんは東海大の先輩だったから、申し訳ないという気持ちのほうが大きかった」と振り返る。

 その後、10月にはアジア選手権400mで3位になり、1600mリレーでは優勝。そして翌年は5月に自己タイ記録の46秒52など46秒5台を連発したが、1992年6月の日本選手権は5位。「今思えば、あとの2回の五輪に比べると、代表を勝ち取ろうという執着心はなかった」と振り返り、その理由をこう続ける。

「今考えると『すごくもったいない400mのレースばかりだったな』という気がします。中学から400mを始めたので、フレッシュさがなくなっていて。専門練習をしないで出ていた頃は楽しかったけど、この頃は嫌な種目になっていた。ただ、高野さんに国際大会に連れて行ってもらえる種目はそれしかなかったし、高校時代に記録を出した流れでやっていた感じでした。高野さんがいたから30歳近くまで陸上をやることができたけど、逆にあの人を見てなければもっと記録が出たかもしれない。とにかく高野さんは練習でも強いし、私生活もストイックで、それを目の前で見てしまったから、『あそこまでやらないといけないんだ』と、世界が遠く見えていました」

【鬱々としていたバルセロナ五輪までの日々】

 日本選手権で優勝した高野と、同タイム2位の渡辺高博(当時・早稲田大)がバルセロナ五輪400mの個人種目も兼ねた代表になり、1600mリレー要員は45秒98で3位の簡優好(当時・順天堂大)と4位の大森に5位の伊東。さらに400mハードルで参加標準記録を突破して代表になった斉藤の6人となった。

 91年の実績を考慮すれば伊東も有力候補だったが、日本選手権の結果は大きかった。「走るのは無理かもしれない」と薄々感じてはいたが、7月の南部記念ではそれをハッキリ突きつけられた。バルセロナ五輪代表選手壮行会と銘打って開催された大会だったが、400mに出場したリレーメンバーは伊東のみだった。

「他の選手には『ここでケガをさせたくない』などもあり、出場したのは自分だけで、壮行レースなので日の丸のユニフォームで出なければいけなかった。その段階で『あぁ、こういうポジションなんだ』と思いました。しかもそのレースでは、リザーブといえど五輪代表選手なので負けるわけにはいけないから、それが一番しんどくて。観ている人たちにはわからなかっただろうけど、あれほど嫌な400mは人生でなかったですね。何かを試されている訳でもないですから」

 そのレースは自己タイ記録の46秒52で優勝したが、得るものは何もなかった。

「南部記念の前後くらいからはもうつらい日々で、なにが起きているかあまりわからなかったくらいです。そこからは本番まで1カ月くらいヨーロッパに行ったのですが、コーチたちからもリザーブ扱いだし、やっているほうもリザーブだと思っていて目標がないので本当にモチベーションを保つのが難しかったですね。一応練習メニューはあっても、どうしても『メインの人ありき』という気持ちになってしまう。だから日々を消化していくだけで、調整しているという感じではなかったし、『あの1カ月間はなんだったの?』という感覚。

 だから400mハードルの選手がリレーメンバーに入ってきた時も、『なにくそ!』というよりも、『彼らは個人種目で標準記録を破っているし、日本選手権も自分のほうが下の順位だったから仕方ないな』という気持ちになっていました」

 五輪の場合はJOCが設定する競技別の人数枠があるため、世界選手権のように参加標準記録を突破していれば出場できる訳ではない。事実、伊東と同じ富士通の所属選手のなかでも、400mハードルでは前年の世界選手権で準決勝進出を果たしていた苅部俊二や、3000m障害の仲村明が標準記録突破も、代表入りできなかった。そんななかで標準記録に届いていない上、出場できるかどうかわからない自分が代表になっていていいのだろうか、という思いもあった。

「形としてはメンバー発表まで可能性があるとはいえ、自分が明らかに出られないポジションとわかっていて一緒にいるのは本当にしんどいというか、調整も難しかったです。だからあの1カ月間はあまり記憶がなく、何をやってもしんどかった。もう自分の体であって、自分の体ではないような感じでした。僕だけ同学年がいなかったので、年齢が近い渡辺や100mの鈴木久嗣たちとは話はしていたけど、彼らはレースに出るのが確実だったから気持ちは鬱々していて......。本当にあのバルセロナ五輪で得たものといったら、今の妻(1万m出場の鈴木博美)と出会えて選手村でいろいろ話をして親しくなったこと以外には、何ひとつなかったな、と思いました(笑)」

【走ってこそ得るものがある】

 ずっとリザーブの2番手という立場で過ごした、6月中旬から8月上旬までの1カ月半。それをトータルして考え、アスリートとして得るものがあったかと聞かれれば、「なかったと言うしかない」と、伊東は言う。

「やっぱりアスリートは走らないと。観客席から見たスタジアムの光景は、あまり得るものがないですね。だから22年の世界選手権に指導する青山華依さんが400mリレーの5番手の選手として行く時、『走れないとわかって練習をしている時より、レースを目の前で見終わったあとのほうがしんどいよ』と話しました。走った人たちには達成感が必ずあるので、そこに気持ちの差ができる。チーム全体で戦うという美学があるというけど、出られない選手にはそんなものはない。僕がバルセロナ五輪で得た結論は、『個人種目で出なければいけないんだ』というものでした」

(つづく)

Profile
伊東浩司(いとう こうじ)
1970年1月29日生まれ、兵庫県出身。
東海大学入学後、1992年バルセロナ五輪で初代表に選出されるも出場はなし。富士通入社後の1996年アトランタ五輪は、200mで日本人初の準決勝進出を果たし、4×100m、4×400mにも出場した。 2000年シドニー五輪では、100m、200m、4×100mに出場。1998年に100mで日本記録の10秒00を出したが、これは2017年に桐生祥秀が更新するまで19年間破られなかった。2008年に早稲大大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。解説者のほか、日本陸上連盟強化委員会短距離部長を務め、現在は甲南大学で短距離の青山華依などを指導している。