PL学園元監督・中村順司×帝京名誉監督・前田三夫 対談 中編(全3回) 1980〜90年代にかけて、甲子園を盛り上げた名…

PL学園元監督・中村順司×帝京名誉監督・前田三夫 対談 中編(全3回)

 1980〜90年代にかけて、甲子園を盛り上げた名将と言えば、PL学園(大阪)の中村順司氏と、帝京(東京)の前田三夫氏だ。今回、久しぶりの再会を果たしたふたりが対談。中編では、中村氏が監督、前田氏がコーチとして一緒に選手を率いた高校日本代表チームのアメリカ遠征の話に花を咲かせた。


1987年の日米親善野球・高校日本代表チームの監督を務めた中村順司氏(左)とコーチの前田三夫氏

 写真提供/前田三夫

●甲子園でにらみ合い?「あれはなんだ!」

前田三夫(以下、前田) 1987年にPL学園が春夏連覇を成し遂げたあと、日米親善野球の高校日本代表チームの監督に中村さん、私がコーチとしてアメリカ遠征に参加させてもらいました。このご縁は、のちの指導にとても活かされています。

中村順司(以下、中村) ロサンゼルスなどで試合して、ハワイにも行ったね。指導についてもいろいろお話しました。

前田 出発前に顔を合わせた時のやりとりが懐かしいですね。夏の甲子園の準決勝、PL学園との一戦で、試合前に両チームの選手がグラウンドでアップをしていて、私たち指導陣だけがベンチに残っていたんです。

 練習の様子を見守りながらふと相手側のベンチを見ると、中村さんが片手にボールを持ちながら何となくこちらを見ている。それで私は足元の段差のところに片足をかけ、今日は負けないぞという思いで中村さんを凝視したんです。



2021年に50年間の監督生活を終え今は帝京名誉監督の前田氏

中村 え? そうだっけ?

前田 忘れています? そうしたら中村さん、こちらに気づいて同じような姿勢をして、(当時の様子を再現するように身振りを交えて)やるならかかってこいと軽く手招きしたんですよ。

中村 そんなことしてないって。

前田 もっと軽い感じでしたが、代表合宿で顔を合わせた時に中村さんが私に開口一番言ったのが「あれはなんだ!」ですよ。もちろん笑いながらですけどね。

中村 え〜、それも覚えていないな。

●アメリカ遠征で7戦全勝

前田 中村さんが試合の時に手にしていたボールは、何か意味があったんですか?

中村 サインの小道具だったんですよ。ブロックサインだけじゃなくて、私の現役時代なんかはバットとか道具を使ってサインを出している監督がたくさんいてね。

前田 関東ではあまり見ていませんが。

中村 こちらは多かったですよ。それで、試合前もボールを手にしながら選手たちを見ていたんです。

前田 いやいや、中村さんを凝視するなんて大変失礼なことをしました。監督同士の駆け引きも甲子園での戦い方のひとつだと思っていたので、気持ちで負けないつもりでつい......。反省しております(笑)。

中村 俺はね、高校野球の監督になったのが30代半ばと遅く、周りは経験豊富な人ばかり。だから監督同士が勝負するなんて考えたこともないんです。それよりも自分のチーム、選手たちをしっかり見て戦おうという意識が強かったので、試合前に前田さんとそんなやりとりがあったなんて信じられないですよ。



PL学園の監督として数々の偉業を成し遂げた中村氏

前田 でも、そのおかげで中村さんとの距離が近くなった気がします。遠征中、中村さんは試合ごとにどういった打順でいこうかと私に聞いてくれましてね。それで、あの選手が調子いいですよなどと伝えたんですが、本番になると私が言った打順と全然違う。

 明日、「ピッチャー誰がいい?」と言われて、これも答えるんですが違ったりする。なるほど、中村さんは温厚だけどやっぱり何か持ってる人だなと思いました(笑)。でも結果的にアメリカで7戦全勝ですからね、さすがですよ。


アメリカ遠征の思い出を楽しそうに語り合うふたり

●PL選手は

「みんな明るくて、野球小僧」

中村 親善野球とはいえ遊びではないから、私らも選手が気をゆるめないよう気を使いましたね。ずっとお山の大将だったような選手も、こいつはちょっとと思う時はスパッと外したし。

 うれしかったのは、高野連の方にうちの立浪(和義)や片岡(篤史)を褒めてもらったことかな。球場に着くと自分のポジションに行ってホーム付近がどう見えるかなど、いの一番に確かめていたから。


PL学園監督時代、若かりし日の中村氏

 写真提供/中村順司

前田 宿舎で私のユニフォームをきれいに畳んで毎回置いておいてくれたのは立浪君でした。チームに帰ったあと、よく選手に話をしたものです。強いチームの選手は周りに対する気配りができる。優勝するというのは、決してまぐれではないんだと。だから、見習おうってね。

 PLとは秋の海邦国体(沖縄)でも2回戦で対戦し、ここでは帝京が運よく勝って最終的に優勝したんですが、PLの選手たちと宿舎が一緒で何度か話をしました。みんな明るくて、野球小僧。私と中村さんが一緒にいたら、そこへ自然と集まって来て私に話しかけてくるんです。フレンドリーで、チームワークも非常によかったんだなと感じました。

中村 そういえば、アメリカ遠征中に前田さんが日本からの電話で「旅に出たヤツ、元気かな」って言っていたのを耳にしたなぁ。電話の相手は部長さんだったかな。選手が練習の不満を言ったとか、言わなかったとか。

前田 あの頃、よく選手に「お前、旅に出てこい」って言っていたんですよ。頭冷やせってグラウンドに入れなかった(笑)。そういう日ごろの練習についてもいろいろ話しましたね。


1979年秋の神宮大会で選手に指示をする前田氏

 写真提供/前田三夫

中村 ロサンゼルスのドジャー・スタジアムにメジャーの試合を観戦に行った時、オーロラビジョンでスタンドにいる我々が紹介されたじゃない。日本チームの一人ひとりが映し出されて、あれもいい思い出になりました。

前田 ディズニーランドにも行きましたね。そうそう、ハワイでは中村さんがオフの日にゴルフに行ったじゃないですか。選手をワイキキで泳がせるから見ててくれと頼まれ、私はゴルフはやらないので気軽に引き受けたんですが、実際は海で選手があちこちに散って、さらに女の子と話をしているヤツもいるし、もう散々でした(笑)。

中村 そんなこともありましたか(笑)。

前田 でも一番記憶にあるのは、中村さんが私に「いつでもやめる覚悟で監督をやっているんだ、辞表はすぐにでも出せる」ときっぱり言ったことです。ハッとさせられましたね。それぐらいの必死さで監督をやらねばならないんだなと知り、身の引き締まる思いでした。

●甲子園優勝で知名度が上がる苦労とは?

前田 私は大学4年だった1972年、22歳の時に帝京の監督になり、初めての全国優勝は1989年夏でした。それまで2度決勝で負けており、勝った時はここまでついに来られたと心の底からうれしかったですね。

 でも、同時に思いました。優勝したからには、それに見合うチームをつくっていかなければならない。勝てば勝つほど選手たちに、そして自分にも厳しくなっていったような気がします。

中村 私は当初18年も監督をやるとは考えておらず、次期監督のつなぎ役として2、3年のつもりだったんです。だから優勝するというよりも、それまで社会人野球で経験を積んできたので、目の前にいる選手たちをもっとうまくしたい。そんな思いで指導に当たっていました。

 だから桑田(真澄)や清原(和博)の時もそうですが、優勝してもグラウンドに戻れば何かが変わるわけでもなくいつもどおり。それは勇退する最後まで変わりませんでした。



前田氏は現在74歳、中村氏は77歳

前田 電車に乗ると、よく「前田さんですか? 頑張ってください」なんて言われてね。それはとてもありがたいことでしたが、半面、知名度が上がると野球以外のところでも注目され、選手が街中で遊んでいたとか学校に通報が入った時は往生しました。

 甲子園に出場したあとは選手がそれで満足してしまい、手綱をより引き締めなければならなくて、真の伝統校になるのは本当に大変なことなんだと痛感しました。

中村 その点、うちはPL教団の敷地内に野球場と寮があり、世間と隔たりがあったのがよかったのかもしれないね。選手は寮生活だから外にほとんど出ないし、私も野球以外のことに惑わされることがなかった。教団職員だったから給料が急に上がることもないし(笑)。常にフラットな気持ちで指導していました。

前田 私の采配がよくなかったという自己反省もあるんですが、一時期、帝京がヒール役になり、マスコミから叩かれましてね。監督とは孤独だなと思ったものです。

●PLの不在に「さみしすぎる」

中村 高校野球はたくさんの人が応援してくれる。支えてくれる人への感謝の気持ちを忘れてはいけませんが、まずは同じ学校の仲間たちから応援されるようなチームになることが何より大事だと思っていました。クラスのなかでもさすがと思われる存在であってほしい。

 でも当時、連続して甲子園に出場すると、一般生徒からまたかという顔をされるんですよ。ところがいざ甲子園に行ってみると、みんなすごく楽しかったって言ってくれる。野球部員に限らず、全校生徒にとっても甲子園がかけがえのない思い出になればと思っていました。



撮影の合間にも高校野球の思い出話は尽きなかった

前田 帝京は野球よりサッカーのほうが先に全国優勝していますが、運動部が強いと学校が元気になります。出入りする業者によく、ここの生徒は明るくて、学校に活力があると言われていました。

 進学校化することも大切かもしれませんが、いつの時も学校が元気であってほしいと私なりに思っています。そう考えると、PLの試合が見られないのは寂しすぎますね。高校野球ファンにとってあまりにインパクトの強いチームですから。

中村 これまで見知らぬ人から「PLの校歌を歌えます」などと声をかけられたこともありましたが、この先時間が経つと大阪桐蔭や履正社しか知らないという人も増えるでしょうね。

 でも、それは致し方ないです。以前は野球が好きで力を注いでくれた教祖でしたが、今は母体である宗教法人の方針で、野球部の復活は難しいようです。いい知らせがいつか届くといいなと、願うばかりです。

後編<「高校野球は変革の時。監督も勉強をし直す必要がある」PL学園元監督・中村順司と帝京名誉監督・前田三夫の指導論>を読む

前編<PL学園と帝京の名将が振り返る直接対決 中村順司「帝京はPLの弱点を狙わなかった」前田三夫「やったところで勝てる相手じゃない、真っ向勝負ですよ」>を読む

【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1998年のセンバツを最後に勇退するまでの18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。

前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校で名誉監督を務めている。