ACミランの伝説的DFであるパオロ・マルディーニは、ミランで2年目のシーズンを戦う本田圭佑についてこう述べていた。「本田はいい選手ではある。だが、このレベルのリーグ(セリエA)にたどり着くのが少しばかり遅かったと言うべきなのだろう。ロ…

 ACミランの伝説的DFであるパオロ・マルディーニは、ミランで2年目のシーズンを戦う本田圭佑についてこう述べていた。

「本田はいい選手ではある。だが、このレベルのリーグ(セリエA)にたどり着くのが少しばかり遅かったと言うべきなのだろう。ロシアリーグのサッカーには最大限の敬意を払うが、高いレベル、すなわち欧州屈指のリーグとは言えないはずだからね」
 

2016-2017シーズン限りでミランを退団した本田

 photo by Getty Images

 そのマルディーニと共に、ミラン黄金期の最終ラインを担ったアレッサンドロ・コスタクルタも、「ミランのOBとして新しい10番に大きな期待を寄せるからこそ、あえて厳しい言い方をする」と前置きした上で、次のように語っていた。

「現時点での本田は”ミランの10番”どころか、単に”ミランの一員”としても認めるわけにはいかないレベルにある。さらに言えば、セリエAでプレーできる水準の選手ではないとさえ、僕は思っている。

 イタリアへ来て最初の2試合を見た時点で、『僕がいた当時のミランであれば、本田はペットボトルを運ぶ役さえも与えられなかっただろう』とも述べた。しかし本田には、僕の言葉を覆(くつがえ)してもらいたい。このコスタクルタを見返してもらいたいと思う」
 
 上に記したコメントのすべては、2014年5月当時のものである。

 そして、迎えた2014-15シーズン、本田はコスタクルタの”期待”に応えるように、開幕7戦で6ゴールを記録した。「ついに実力を発揮し始めたか」とも思われたが、周知の通り、以降の本田は急激な下降線をたどっていくことになる。

 確かに、ここ数年のチームの凋落は著しいが、それでもなお”ACミランの10番”が持つ意味は軽くはない。だからこそ、見る者は相応のプレーを期待する。特に、長くミラン本拠地であるサン・シーロに通うファンは、”かつての10番たち”と”目の前の10番”とのギャップに失望を募らせていった。

 本田がミラノに来て3ヵ月弱が過ぎた頃、すでにして評価が地に落ちていた状況下で、私は自らの記事にこう書いていた。

「それでも、本田を信じる」

 率直に言って、技術的な意味で確たる裏づけがあったわけではない。だが、他の選手とは明らかに一線を画す彼の真摯な姿勢や、高貴なまでのプロ意識を間近で見ていたからこそ、私はひとりのミラン番記者として、ひとりの熱烈なミラニスタとして”新たな10番”の奮起を心の底から期待していた。

 しかし状況は厳しかった。私の取材メモにはこう記してある。

「ミランを50年にわたって見続けてきた、80歳をはるかに超えたファンのひとりは、今年(2014年)3月当時、寂しげな表情と怒気を交えながらこう語っている。『今すぐ本田はミラノを去るべきだ』『クラブ史上最低の10番』『50年目にして、私は初めてサン・シーロへ通うことをやめた』」

 財政難にあえぐクラブと、次々と代わる監督。負けが負けを呼ぶという負の連鎖に陥ったチームで迎えた2015-2016シーズン、シニシャ・ミハイロビッチ監督の指揮下でも本田は精彩を欠く。リーグ30戦に出場し、得点はわずかに「1」のみだった。

 このシーズンに、”かつてのライバル”であるユベントスの10番を背負ったポール・ポグバは、リーグ最多の12アシストを記録。同じく、ユベントスのエースとなったパウロ・ディバラは、リーグ2位の19ゴールを挙げている。彼らとの違いはあまりにも大きすぎた。
 
 2016年1月には、同じポジションのスソがジェノアへレンタル移籍し、左FWの地位を自らのものとするが、そのプレーの質は……。サン・シーロのゴール裏に陣取るティフォージ(熱狂的なファン)たちの、容赦のないブーイングがすべてを物語っていた。

 そんな中で、いわゆる普通のファンたちが本田に罵声を浴びせることは、試合を経るごとに少なくなっていった。もはや「現10番への期待は無意味だ」と、多くのファンが諦めにも似た想いを抱くようになっていたからだ。

 失望を抱く以外になかった試合は無数にあるが、2016年1月に行なわれた、イタリア杯(コッパ・イタリア)準決勝1stレグが特に印象深い。相手はアレッサンドリア。当時、セリエAでもBでもない、セリエC(3部)に属していたクラブである。その試合でミランは1−0の勝利を収めるも、当の10番はといえば、セリエBでの出場経験すらないDF(左SB)に封じられ、何もさせてもらえなかった。

 その試合を私たちミラニスタがどういう気持ちで見ていたか。もはや言葉にする必要はないだろう。

 一方、ジェノアへ移ったスソは、優れた指導者であるジャンピエロ・ガスペリーニ(現アタランタ監督)のもとで、試合を経るごとに目覚ましい成長を遂げる。イタリアで生き抜くために必要なスキルを吸収し続ける23歳のスソと、すでに30歳となった並の選手。スソは半年でミランに復帰するが、翌シーズンの両者の状況に差が出ることは、あまりにも明白だった。
 
 その2016-2017シーズン、”ようやく”本田はイタリアでの最後のシーズンを迎える。監督はまたしても代わり、新たに指揮を執ることになったのはビンツェンツォ・モンテッラだった。

 本田がミラン入りした当時の監督だった、マッシミリアーノ・アッレグリは間もなく解任され、以降はクラレンス・セードルフ、フィリッポ・インザーギ、シニシャ・ミハイロビッチ、クリスティアン・ブロッキと続いた。

 アッレグリとミハイロビッチを除く3者は、トップレベルでの監督経験は皆無だったと言っていい。そんな中、モンテッラはミランの監督に就任する前に、ローマやフィオレンティーナなど、セリエAで6季にわたり指揮を執っていた。まだ若いとはいえ、イタリア国内における監督としての評価は決して低くない。

 そのモンテッラの、本田に対する評価は自ずと決まっていた。ジェノアで成長してミランへ戻ってきたスソが”ティトラーレ(レギュラー)”となるのは必然だった。モンテッラが、現役時代に通算230ものゴールを決めた”左利きのFW”だった事実も、本田への厳しい評価を振り返る上で押さえておくべき点だろう。

 3年半に及んだ本田のミランでのキャリアを総括するとすれば、やはり冒頭に引用したマルディーニの「このレベルのリーグ(セリエA)にたどり着くのが少しばかり遅かった」という言葉に行きつく。

“たられば”の話が無意味であることはもちろん承知の上だが、もしも本田のイタリア移籍があと5年、いや、3年でも早ければ……と思わずにはいられない。それこそ、スソがガスペリーニという監督に鍛えられたように、たとえば、カルロ・アンチェロッティ(現バイエルン・ミュンヘン監督)のような指揮官のもとでプレーすることができていれば、間違いなく現在の本田に対する評価は別のものとなっていただろう。

 だからこそ、アンチェロッティと同様に、指導者としての資の高いアッレグリが本田のミラン入り直後(デビュー戦の翌日、2014年1月13日)に解任されたことが残念でならない。無論、それを今にして言っても仕方がないのだが。

 2014年の4月、私はこうも記している。

「1986年に始まるベルルスコーニのミランは、今季(2013-2014シーズン)、28年に及ぶ歴史の中で最悪の状況に置かれている。そのシーズン途中に本田がミラン入りし、しかも10番を背負うというのは、果たして偶然なのか。それとも……」。

 そして、2016-2017シーズン途中に”ベルルスコーニのミラン”は幕を閉じ、後を追うように、今年の6月30日にミランと本田の契約は期限を迎えた。
 
 ここまで厳しい言葉を書き連ねてきたが、本田の名誉のためにつけ加えておきたいことがある。この3年半のある時期に、技術的な評価以前の問題として、いわゆる”アジア人選手に対する偏見”と言わざるを得ない言動が、特定の人物によってなされていた。これは極めて残念な事実だ。

 こうした”見えざるもの”との戦いを強いられていたことを、私たちは知っている。来たる8月、新天地メキシコでの本田の活躍を心から祈る。