前編では生い立ちから学生時代の活躍、そしてアトランタオリンピック出場からスランプまで赤裸々に語ってくれた源。今回はシドニーオリンピックを目指し、環境を変えるために故郷・徳島を離れて東京の大学に進学。そして2度目のオリンピック出場の舞台裏につ…
前編では生い立ちから学生時代の活躍、そしてアトランタオリンピック出場からスランプまで赤裸々に語ってくれた源。今回はシドニーオリンピックを目指し、環境を変えるために故郷・徳島を離れて東京の大学に進学。そして2度目のオリンピック出場の舞台裏について話を聞いた。(取材・文/大楽聡詞 写真/本人提供)
大学進学、「やり残したことがあるんだったら、一緒にやろう」
水泳をポジティブに捉えるようになった源の元には、各大学から推薦の声が掛かる。源は中央大学を選択。2023年現在、中央大学水泳部は15回の日本一、インカレ11連覇、そして多くのオリンピック選手を輩出した名門。
「いろんな条件を提示してくれるところもあったけど、中央大学のコーチが『やり残したことがあるんだったら、一緒にやろう』って言ってくれたんです。それに中央大学には同期の中村真衣(2000年シドニーオリンピック100m背泳ぎ銀メダリスト・400mメドレーリレー銅メダリスト)の進学が決定、1個先輩に田中雅美さん(400mメドレーリレー銅メダリスト)がいたのも大きなキッカケです。真衣は『純夏が中央大学行くんだったら一緒に行く』って言いながら、もう先に決めていたけど(笑)。それもあり中央大学に決めました」
大学入学1か月で自己ベスト更新
それまでの環境を変えて、オリンピックに向けての新たな水泳人生が始まった。高校時代と比べてどうだったのか。
「入学前の合宿は、結構辛くて泣いていました。大学の練習が、今までやっていたことと全く違うし、求められるレベルも高い。最初から順応できないと思っていたけど…今思えば、新しい刺激を入れるのに感情が高ぶっていたんでしょうね」
大学のキャンパスライフは楽しかった。地元徳島だとオリンピック出場選手として特別扱いされたが、大学は違った。
「徳島だとオリンピック日本代表選手は腫れものに触る感じで接する人もいました。でも中央大学は日本代表レベルがたくさん集まってきます。だから純粋に応援をしてくれるし、純粋に私自身に興味を持ってくれた。仲いい友達もできて、私が練習で大変な時、友達のお母さんが私のお弁当を作ってくれて。それも嬉しかった。授業にあまり出られなかったけど、大学時代は楽しかったですね」
小中高と、周りが作った「水泳」というレールの上を走ってきた源。大学時代も周りに支えられた。だが大きく変わったことがある。
「以前と同じように支えてくれる人たちがレールを作ってくれました。でもレールを走る私自身も、自分でレールを作り始めました。それまでは『オリンピック』というゴールばかり見ていました。でも高校2年の冬に『今できることをやろう』と決めました。1998年3月1日に高校の卒業式、3月3日に上京して水泳部に合流し、合宿に入りました。だから入学式とか出てないんだけど(苦笑)。1998年4月、日本短水路選手権という25mの日本選手権があり、日本記録が出ました。高校3年間は1回もベストタイムが出なかったのに(笑)」
ベストタイムを出して、自分の力を再確認できた源。心はパフォーマンスに直結する。
「練習のやり方が変わって、体に入る刺激が変わった。体の使い方も変わったし、頭の使い方も変わった。『環境を変えるって大事だな』って、その時に実感しました。高校3年間でベストタイムが出なかったけど、大学で1か月練習して記録を更新したのは、苦しんだ3年間があったから。それは絶対です。苦しいからといって辞めていたら、何も残らなかった。でも、この苦しい3年間があったから、自分でも驚くタイムがでました」
オリンピックを目前に控え指先の大ケガ
中央大学に入学し、ベストタイムを更新。2000年のシドニーオリンピックでアトランタの雪辱を果たすべく練習を重ねていた源。だがオリンピックを1年後に控えた大学2年生で大ケガをする。
「1999年7月21日に指先がポロって取れかけたんです。皮1枚つながっている状態で開放骨折。骨の中に針金を指して指を固定しますが、末梢神経はくっつきにくい。感染症の恐れもあり、手術後は絶対に水につけてはダメ。9月末まで練習ができませんでした。オリンピックの前年だから『もうダメだね』って言われました。休んでいた3か月間、インカレも国際大会もオリンピックのプレ大会も出場できなかった。水泳が嫌な時期も調子が悪かった時期も当たり前に泳いでいた。今度は泳ぎたいのに「泳いじゃいけません」と言われて。その時、初めて立ち位置が変わりました。今までプールの中だったのが、泳げない間はマネージャーとしてお手伝い。プールの外から頑張っている選手たちを見て、『選手が泳ぐっていうのは、こんなにいろんな人に支えてもらっているんだ。自分が泳いでいるのは当たり前じゃないんだ」っていうのを感じることができた。言葉では、なんとでも言えるけど、初めて自分の身としてそれを実感しました。針金を抜いて、『もう泳いでいいですよ』と言われてから、泳げることが本当に嬉しかった。『私はオリンピックに出る。そこでベストタイムを出す』っていう目標を作り、そこに向けて自分のレールを引いていました。そのことに1ミリの疑問も持たなかったし、周囲の声は気になりませんでしたね」
だが現役選手が3か月欠場すると筋肉も落ちてしまう。落ちた筋肉を元に戻すまで倍以上の時間がかかる。
「そこそこ時間がかかったと思います。実はその辺の記憶があんまりなくて(苦笑)。多分、3か月泳げなかったってことに、私自身そんな深刻に思ってなかったから。だって3か月泳げなかったけど、泳げるようになったし、今泳げる。私は異常にポジティブなんです。「細かいことは気にしないタイプ」なんで(笑)。むしろ、体を作り直すことができた。筋肉も落ちたし運動量も落ちて体が細くなったけど、もう1回作り直すことができたので、それは良かったと思います。 だって、普通に選手として毎日練習していたら、一から体づくりはできないですから(笑)」
自身2度目のシドニーオリンピック
アトランタオリンピックの後、なかなか戻らなかったモチベーション。だが大学に入学し環境を変えたことで気持ちも前向きになった。そして自身2度目のオリンピックが訪れる。アトランタと比べてシドニーオリンピックのモチベーションは変化したのだろうか?
「そこは比べたことなかったですね。アトランタの時は、オリンピック代表選考会で勝って出場が決まることが、ゴールでした。だからオリンピックまでの期間は、ボーナスタイム。浮かれていたんだろうなと思います。ただ2回目ともなると、出場経験があるので道のりがわかる。体調管理やモチベーション、自分のピークをどう持っていくかなど組み立てがしやすいんです。1回イメージを持っているので。だから『代表選考会で代表権を勝ち取ったところがゴールじゃなくて、そこがスタートなんだ』っていうのは全然違いました」
2度目の出場だったからこそ、1度目の経験を生かして取り組むことができた。源はシドニーオリンピックで、自由形50m・自由形100m・400mメドレーリレーの3種目にエントリーしていた。先に行われた自由形50mは8位、100m7位と個人2種目で入賞を果たす。
「私、やっぱり個人競技で取りたかったんですよ。ただ元々、『誰かのために頑張りたい』という気持ちが強い。リレーは自由型が必ずアンカー。何があっても『私が順位を決めなきゃいけない』っていう責任ある立場の中で、みんなから受け継いだものを自分が最後に完結させるっていう意味で、すごく頑張りがいがある種目。ですから、そういう意味でメダルを取れたのは嬉しかったけど、『個人競技でベストタイムを出したい』っていう思いがあったのに、100mも50mもベストタイムが出なかった。ただ業界では、短距離種目で日本人女子が決勝に残るのは、後にも先にも今のところ私だけなんです。個人自由形100mで7位、50mで8位。これは誇るべき結果かなって思ってます」
実は個人自由形50mの決勝レースが終わって、次の400mメドレーリレー決勝のレース開始まで約40分しかなかった。
9月23日・現地時間15時33分に行われた女子50m自由形 決勝を終えると、選手がインタビューを受けるミックスゾーンに事前にスタッフが通告をして、ほぼ全ての取材をスルー。源を16時16分開始の女子400mメドレーリレー決勝に集中させた。
「あのミックスゾーンの中を、私は歩いて進む。それもヘッドコーチに全部荷物持たせて(苦笑)。記者の人の質問は一切なし。ただ『頑張って』と声をかけてくれました。スタッフが、そういう体勢を作ってくれた。短い間にクールダウンしなきゃいけないから、2人のトレーナーが私をマッサージしてくれて、『足が冷たい』と言ったら靴下を履かせてくれて、『喉が渇いた』と言ったら、マッサージ中にストロー付きの飲み物をくれました。そんなにサポートしてくれたのが嬉しくて、『この思いに報いるためにも絶対にメダルを獲得する』と決意しました」
アンカーの源は3位でタッチを受けた。残り25m付近でドイツに抜かれたが、盛り返し3位でフィニッシュ。日本が女子リレーでオリンピック史上初のメダルを獲得した。
「4位のドイツとの差は0.17。3位と4位の差はメダルあるかないかって言いますけど、本当に違う。でもメダルを獲得した人間からすると、金銀銅の色の違いの差を感じます(苦笑)。色でも差が出るしメダルを取っただけでは、日本でご飯を食べていけない。オリンピックメダリストの肩書きをどう活かしていくか。やっぱりオリンピック出場を決めたところがゴールじゃなくて、そこがスタートって言いましたけど、『ある意味メダルを獲得してからスタートと考えなきゃいけないんだな』って振り返ったら思います」
7歳から水泳をはじめ、17歳で出場したアトランタオリンピックで結果を残せずスランプに陥った少女は、周りの話に耳を傾け21歳で日本史上初、シドニーオリンピックで女子リレーのメダルを獲得した。後編では、現在源が取り組むライフセービングとSUPについて話を伺う。(後編へ続く)