「神様、仏様、井口様!!」 千葉ロッテマリーンズの井口資仁に関して筆者が真っ先に思い出すのは、彼を応援していた父兄た…

「神様、仏様、井口様!!」

 千葉ロッテマリーンズの井口資仁に関して筆者が真っ先に思い出すのは、彼を応援していた父兄たちの叫びだ。プロ入りしてから、あるいはメジャー移籍後に大観衆のスタンドから発せれたものではない。今から約30年前、少年野球のフィールドでベンチ裏から飛んできた掛け声だった。

 6月20日、井口は今季限りでの現役引退を発表した。日本とアメリカの両方で優れた実績を残し、合計21年にわたるキャリアを過ごした上での見事な幕引きだ。



ホワイトソックスのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した井口

 MLBでは、渡米1年目の2005年に2番セカンドに定着し、シカゴ・ホワイトソックスの88年ぶりの世界一に貢献したことが印象深い。ルーキーイヤーで打率.278、15本塁打、15盗塁という堂々たる成績を残し、翌2006年も.281、18本塁打、11盗塁と、2年連続で結果を出したことは特筆されるべき点だ。

 これまで、MLBで活躍することができた日本人野手は数えるほどしかいない。特に入団当初は、打撃面ではツーシームをはじめとする慣れない球種に、守備面ではフィールドの芝の長さなどに苦しむ選手が多かった。松井秀喜、松井稼頭央といった、日本で輝かしい成績を残した野手ですら、それは例外ではなかった。この点で、メジャーキャリア開始直後から当たり前のように活躍し続けた、井口の順応の早さは際立っている。

 フィールド上で誇示した適応能力と共に、筆者の取材の中で記憶に残っているのは、井口がクラブハウスでも”自分らしさ”を貫いていたことだ。メジャーリーグに来た他の多くの日本人選手のように、少しでも早くチームに馴染もうと躍起になっているようには見えなかった。いい意味でビジネスライクに、淡々と自分の仕事をこなしていた印象がある。

 言葉で言ってしまえばシンプルだが、異国の新たな環境の中での”割り切り”は簡単ではなく、その上で結果を出すのはもっと難しい。しかし持ち前の”強心臓”で渡米直後にそれをやり遂げた井口の姿に、少年時代の記憶があらためて鮮明に蘇った。

 筆者は井口と同じ東京都の田無市(現在の西東京市)出身で、小学生時代は「ビクトリー」という地元の軟式少年野球チームでプレーした。年齢は井口が1つ上だったこともあって、親しい友人関係だったわけではない。しかし、当時キャッチャーだった井口と、1学年下でチームのエースピッチャーだった筆者が、バッテリーを組ませてもらったことが何度かある。

 未成熟な小学生同士のゲームの中でも、類まれな井口の勝負強さには驚嘆させられた。井口が中心となった1986年のビクトリーは、小さな田無市の代表として、初めて東京都学童軟式野球大会でベスト4に進出。都の王者を決める大会は接戦の連続になったが、終盤イニングや延長戦などで、決まって快打を飛ばしたのが井口だった。

 最近では「クラッチヒッター(勝負強い打者)というものは存在しない」という論調もあるが、それは間違いではないように思う。存在するのは、普段よりもチャンスの場面のほうがヒットを打てるようになる選手ではなく、身も凍るような状況でも平常心を保ち、普段通りにプレーできる選手だ。それが”クラッチプレーヤー”と呼ばれるのであり、少年期の井口は、まさにそんな選手だった。

それから約20年が過ぎ、ホワイトソックス、のちにフィラデルフィア・フィリーズの取材時に見たのも、当時と同じく、どんな状況でも常に自分らしくプレーできる意志の強いパフォーマーだった。

「井口みたいに野球を深く理解している選手はいない」

 ホワイトソックスがワールドシリーズを制覇した際に、オジー・ギーエン監督(当時)が残したこのコメントは有名だが、筆者の取材時にもギーエン監督は盛んに井口の活躍を讃えていた記憶が残っている。

 攻守両面で貢献した井口への評価は、2005年のチーム内で抜群に高かった。ポストシーズンの実績も加味して、MLBで成功を収めた日本人野手として、イチロー、松井秀喜に次いで井口の名前を挙げる野球ファンも少なくない。

 それほどのプレーができたのは、揺るがぬ強心臓と、自分を信じ抜く強い意志があればこそ。必要以上にMLBに適応しようとしなかったからこそ、順応が早かった部分もあるだろう。そんな井口のメジャーでの足跡は、アスリートが海外で成功するための、ひとつの条件を物語っている。