2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、女子選手たちへのインタビュー。パリ五輪出場のためには、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)で勝ち抜かなければならない。選手たちは、そのためにどのような対策をしているの…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、女子選手たちへのインタビュー。パリ五輪出場のためには、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)で勝ち抜かなければならない。選手たちは、そのためにどのような対策をしているのか、またMGCやパリ五輪にかける思いについて聞いていく。

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パリ五輪を目指す、女子マラソン選手たち
~Road to PARIS~
第2回・鈴木亜由子(日本郵便)前編



鈴木亜由子(日本郵政)は東京五輪に出場し、19位の結果に終わった

 今年3月の名古屋ウィメンズマラソンで、鈴木亜由子は2時間21分52秒の自己ベストをマークし、日本人トップ、総合2位という強さを見せた。元々はトラックが主戦場だったが、18年の北海道マラソンで初めてフルマラソンを走り、東京五輪ではマラソン女子日本代表として五輪の舞台を駆け抜けた。19位に終わったあと、2カ月間は競技を離れたが、心身ともにリフレッシュして復帰。10月のMGCに向けて、トップでパリへの切符を掴む覚悟だ。

 マラソンに挑戦する2018年より前までは、鈴木はトラックをメインに活動し、15年北京世界陸上では5000m9位、17年ロンドン世界陸上では10000m10位という成績だった。16年リオ五輪では左足に痛みがあり10000mは欠場。5000mに絞って出場したが、予選12位に終わり、決勝には進出できなかった。

「トラックで入賞を目指してずっとやってきたんですが、あと1歩届かなかった。ランナーとしての可能性を広げたいという思いがあったのと、MGCに出てみたいと思ったのでマラソンを考えるようになりました」

 マラソンは冬が本格的なレースシーズンになる。

 冬の時期に故障することが多かった鈴木は「大丈夫だろうか」と不安に思っていたが、そんな時に背中を押してくれたのが日本郵政の髙橋昌彦監督だった。

「監督から『マラソンに向いている、向いていないという判断は、本当にやりたいのか、そしてその思いが強いかどうか、だと思っている。最終的にはマラソンを走りたいという覚悟が全てだよ』とおっしゃっていただいたので、覚悟を決めました」

 それからマラソンの練習を始めたが、「スタミナはもともとあるほうだと思っていたので、長い距離への苦手意識もなく」42.195キロにあまり抵抗はなかった。

 黙々と長い距離を踏む距離走では、練習中に監督が音楽を流してくれた。チームにマラソン組が数人いるので、それぞれが好きな曲を持ち寄り、それを流して走る。

「これは元気もらいましたね。距離走には必須でした(笑)」

 ちなみに鈴木の推しは、ももいろクローバーZとYOASOBIだ。

 最初のレースは、2018年8月の北海道マラソンだった。フルマラソンを走る場合、一般的にはタイムが出にくい夏のマラソンを選択しない傾向にあるが、鈴木はあえて北海道マラソンを選択した。

「MGCを見据えてというところが一番大きいのですが、私は夏の暑さに強いほうなんです。だから、冬のレースよりも確実にMGC(2019年)の出場権を得られるんじゃないかなと思いましたし、夏よりも冬のほうがケガをすることが多かったので、それならケガのリスクが少ないほうがいいと思って北海道マラソンを走ることに決めました」

 暑いなか、鈴木は32キロ地点から独走し、圧倒的な強さを見せて2時間28分32秒で優勝、MGC出場権を獲得した。

「初レースだったので、失敗しないように途中までペースメーカーについていって、力を温存していました。安全に走ったレースだったので、後半までしっかり脚が動いていました」

 トラックのオリンピアンである鈴木が初マラソンで初優勝し、そしてMGC出場権獲得をしたインパクトは大きく、マラソン選手としての鈴木への期待は一気に高まった。鈴木のトラックや駅伝でのスピードを知るマラソン選手や指導者たちは、きっと戦々恐々としていたに違いない。実際、MGCまでに鈴木は、暑さへの強さ、スピード、粘り強さからも優勝候補の一角に挙げられていた。

 そして2019年9月、MGCのスタートラインに立った。

「緊張しましたね。出場者が10名という小人数でしたし、一発で代表が決まるというのは、これまでにないマラソン代表の決め方でしたから。しかも、自分は人生2回目のマラソン。トラックだとメンバーを見たり、自分の調子で展開とかも多少予測はできるんですが、マラソンについてはとにかく経験が浅い。そういうことも緊張を増幅させる要因になっていました」

 レースはハイぺースで進んだ。

 鈴木は、18キロ地点からリードする前田穂南(天満屋)を追いかけたが20キロ過ぎには離されてしまった。その後は単独走が続き、体力がどんどん消耗されていくのを感じるなか、40キロ過ぎにうしろから誰かが追ってくる気配を感じた。

「前半はちょっと速かったんですが、そのままいけるかなとも思い、怖いもの知らずで前田さんにつきました。しかし20キロあたりでこのままついていったらきついなと感じ、ペースを落とし、後半勝負を考えました。ところが、先頭の前田さんからはどんどん離されるばかり。単独走が続くなか、30キロ過ぎの皇居の折り返しで後続を確認すると、3位の小原怜さん(天満屋)が20秒差ぐらいにいることが確認できました。

 ラスト2キロはもうめちゃくちゃきつかったですね。余力がないので、なんとか耐え忍ぶというか......ここで一瞬でも気を抜いたら脚が止まるのがわかっていたので、我慢するしかなかった。本当にこれまでの競技人生で一番きついレースでした」

 鈴木は粘って2位でフィニッシュし、東京五輪女子マラソン日本代表の座を射止めた。自身では、2大会連続での五輪出場、そして初のマラソン日本代表に決まった。

「ただただ苦しかったので、喜びよりも安堵のほうが大きかったですね」

 しかしながら、東京五輪は新型コロナウイルスの世界的感染拡大の影響により、1年の延期が決定。2021年になってもウイルスの猛威は衰えず、こんな時に東京五輪をやるべきなのか。アスリートたちにも厳しい声が飛び交うようになった。

「そういう声やコロナ禍の影響に対して、私に限らず、東京五輪に出場する選手の多くが少なからず影響を受けたと思います。自分がどう競技に向き合えばいいのかという問題だけではなかったので。また、沿道からの応援って本当に力になると、初レースやMGCの時に実感していました。知り合いからの応援はもちろんのこと、沿道に駆けつけてくれた人たちの声や熱気などすべてが大きな力となっていました。沿道での応援が自粛された五輪は少し残念ではありましたが、それも全て受け入れてレースに臨むしかないと思っていました」

 2021年8月、東京五輪の女子マラソン当日、鈴木は「ちょっとした不安」を抱えてスタートラインに立っていた。

「リオ五輪の時、左足に痛みがあって10000mに出られなかったんです。それがあったので、今回はとにかく走れる状態でスタートラインに立つことが大前提としてありました。そのため、故障しないようにすることを重視するあまり、強度の高い練習など、質(スピード)については自分自身消極的になってしまっていました。監督は『亜由子はレース本番の集中力があるから大丈夫』と励ましてくれていたんですが、レースが近づくにつれ、不安になっている自分もいて......。もうちょっと練習に裏づけられた自信をもってスタートラインに立てていたらよかったのかなとあとになって思っていました」

 ケガなくスタートラインに立つことを意識するあまり、監督と鈴木の間には「安全にいく」という暗黙の了解のようなものがあり、それにそって練習メニューが立てられた。「慎重になりすぎた」と鈴木は語ったが、リオ五輪の失敗を活かすためには、慎重に進めていくのはある意味致し方ない部分ではあった。

 レース前日にスタート時間を1時間繰り上げるという発表がされ、午前6時にレースが始まった。序盤、鈴木はケニア勢など先頭集団の後方に位置し、自分のペースを維持した。15キロで少し離れるも18.8キロ地点で先頭集団の後方に追いついた。しかし、それから徐々に先頭集団から離れ、最終的に19位でフィニッシュした。

「前半はポジション取りが悪かったなぁって思いました。どっちつかずの位置で走ってしまい、もっとしっかり集団について走れたら同じ順位であっても納得できたと思います。レース後は自分の力を出しきれたのかどうかわからず、これならむしろ惨敗して終わったほうが逆にスッキリするのになって思いました。結局、アフリカ勢に一度も絡めず、勝負できないまま終わってしまった。自分を責める気持ちとモヤモヤした気持ちが消えず......なんだか、つらかったです」

 マラソンに挑戦して以来、勝つために研ぎ澄ませてきた体とメンタルは、疲労困憊に陥っていた。

後編に続く>>パリ五輪で狙う世界との真っ向勝負「最低でも日本記録を破る走力がないと戦えない」

PROFILE
鈴木亜由子(すずき・あゆこ)
1991年10月8日生まれ。愛知県出身。豊城中(愛知)、時習館高(愛知)、名古屋大学を経て2014年、日本郵政に所属。オリンピックは2016年リオ大会、2021年東京大会に出場。世界選手権は2015年北京大会、2017年ロンドン大会に出場。マラソンのベスト記録は2時間21分52秒(2023年3月名古屋ウィメンズマラソン)。