鹿島忠氏は1年目の登板機会なし…“打撃投手”が持ち場だった 屈辱のルーキーイヤーだった。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏…
鹿島忠氏は1年目の登板機会なし…“打撃投手”が持ち場だった
屈辱のルーキーイヤーだった。元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏はドラフト1位で中日入りした。社会人野球・鹿児島鉄道管理局から加入。即戦力右腕のはずが、1年目の1983年は1軍登板ゼロに終わった。それどころか「2軍でもトーナメント大会に1試合投げただけ。1軍手伝いのバッティングピッチャーが仕事みたいなものだった」。中日主催の1軍地方遠征に打撃投手として参加したこともあったという。
鹿島氏は1年目について「なぜ、あんなふうになったのかわからない。俺を使いたくないって感じだった」と振り返った。「たぶん嫌われていたんじゃないかなぁ。嫌われることをした覚えはないけど……」といまだに困惑気味の口ぶりでもあった。
近藤貞雄監督率いる中日で、春季キャンプは1軍に帯同。ブルペンで小松辰雄投手、牛島和彦投手、鈴木孝政投手、三沢淳投手らの凄さを目の当たりにした。「小松さんのボールを見てレベルが違うと思った。同級生の牛のフォークボールもポンって落ちるし、えらいところに来たとは思った。逆に自分のことはこんなのがドラフト1位なのかって感じだったんじゃないかな。マスコミにもあまり騒がれた記憶がない。前の年(1982年)に優勝していたから、そのメンバーの方がマスコミにも扱われていたと思う」。
キャンプが終わって2軍落ちが決定。これには「まぁ、しょうがないな」と思いつつも、ここからやり直して、巻き返そうと誓っていた。もちろん、その時は1年間も打撃投手稼業がメーンの仕事になるなんて思ってもいなかったのは言うまでもない。
打撃投手で1軍に帯同…芽生えた「絶対見返してやる」の気持ち
「あの頃はバッティングピッチャーの数が少なくて、1軍がナゴヤ球場で試合の時は2軍から若手投手が1人か2人、ピックアップされて手伝いに行って投げていた。そこに、いつもいの一番に俺の名前があった。1シーズンずっと。そんなふうになって何も思わないわけがないでしょ。屈辱だった。俺は何しに来たんだろうって思った。同級生の牛はバンバン投げているわけだし……」
中日主催の北陸遠征に呼ばれた時も忘れられない。「新聞記者に『鹿島君、1軍に上がったのか』って冷やかされた記憶がすごくある」。ドラフト1位のプライドなんて、ズタズタだった。
「ナゴヤ球場で(2軍がデーゲーム、1軍がナイターの)親子ゲームの時は朝、球場に行って、2軍の試合を見て、練習して。練習といっても走るだけで、それから1軍のバッティングピッチャーをやって、帰って風呂に入って、また球場に行って1軍のゲーム見学。あれも屈辱だったなぁ」。
芽生えたのは「絶対見返してやる!」との強い気持ちだった。このままで終わってたまるか。ただ、その一心だった。中日はその年、リーグ5位に終わり、近藤監督は辞任。翌1984年シーズンは山内一弘氏が監督に就任した。
2年目の鹿島氏はキャンプから頭角を現し、開幕3戦目、1984年4月8日の広島戦(広島)に2番手でプロ初登板を果たした。1年目の中日首脳陣にどんな思惑があったかわからないが、その屈辱の日々が間違いなくバネになった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)