鹿島忠氏は鹿実で2度甲子園出場も初戦敗退…土は持ち帰らなかった 元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は鹿児島実時代、2年夏(…
鹿島忠氏は鹿実で2度甲子園出場も初戦敗退…土は持ち帰らなかった
元中日投手で野球評論家の鹿島忠氏は鹿児島実時代、2年夏(1978年)と3年夏(1979年)に甲子園に出場した。いずれも初戦敗退に終わったが、本格派右腕としてプロに注目された。刺激になったのは、2年時と3年時に鹿児島で行われた南日本招待高校野球での出来事だった。2年時には南陽工・津田恒実投手(元広島)の剛速球に仰天し、3年では小早川毅彦内野手(元広島、ヤクルト)を擁したPL学園を完封して自信をつけた。
鹿島氏は名古屋市で生まれ、小学校6年途中までは大阪・門真市で育った。「小6の夏休みからは鹿児島。野球を本格的にやり出したのは中学から。軟式で、その時からピッチャーだった」。中学時代から有名だったそうで、鹿児島実にはスカウトされて入学したという。「俺の頃はまだ野球部の寮がなくて、一般の寮に入った。だけど、朝練があるから寮の朝飯は食えなかったし、夜は遅いから夕飯の時間には間に合わなかった。飯は昼の弁当、それだけ」。
食事をまともにしていなかったのだから、見る見るうちに痩せていったという。「見かねて3年生の選手兼マネジャーの先輩が、俺のために弁当を2つ持って来てくれた。あれは助かったなぁ」。1年夏の大会前には野球部の久保克之監督から「俺の家に来い」と言われた。「大会が終わるまで監督の家で朝昼晩食べさせてもらった。夏が終わってからは野球部専用の下宿に住むことができたのでちゃんと食べられるようになったけど、最初の3か月くらいはまず食事が大変だったね」。
2年からエースになり、2年夏は甲子園に出場したが、1回戦で静岡高に3-4で敗戦。2年秋は九州大会準々決勝で岡崎郁投手兼内野手(元巨人)を擁する大分商に5-7で敗れて選抜出場を逃した。「あの頃は九州大会の前に神宮大会があって、そこで優勝した柳川商に1回戦で8-1でコールド勝ちして、もう絶対選抜と思った。それが大分商に負けてがっかりだったよ」。3年夏は甲子園切符をつかんだが、相可高(三重)に2-4とまたも初戦で散った。
「2年の時は3年になってまた来るからって、甲子園の土を持って帰らなかった。でも3年の時もまぁいいかって持って帰らなかった。プロで来るからとかは全く思ってなかったんだけどね。野球が好きで甲子園が目標。その達成感の方が強かった。あとでスパイクについていた土を薬瓶に入れて家に置いていたけどね」。そんな高校時代に印象に残っているのは甲子園大会だけではない。それが南日本招待高校野球だ。
鹿実3年の招待試合で小早川毅彦氏がいたPL学園を相手に完封した
「春の県大会と夏の県大会の間にあったんだけど、2年の時は3年生の(南陽工の)津田さんを見て、むっちゃ、速いと思った。それまで見た投手の中で一番速かった。見たことがないスピードだった。レベルが違うなと思った」。鹿島氏は津田氏のストレートに刺激を受けてさらに精進した。そして、3年時の南日本招待野球ではPL学園を相手に2-0で完封勝利をマークした。
「2年の時に大阪遠征があって、PLと試合をする予定だったんだけど、雨で中止になった。その時はPLの合宿所に行って、練習だけした。PLの3年生だった木戸(克彦)さん(元阪神)に案内されながら自分と同級生になる小早川とかを知った。すごいのがおるなって思ったけど(翌年の)招待野球でこいつらが来るって聞いて、絶対勝たなきゃいかん、みたいにその時から気合も入っていた。3年の時の(南日本招待野球での)試合では小早川も抑えたはずだよ」
PL学園は1978年夏の甲子園を制覇。小早川氏が4番だった1979年春の選抜ではベスト4入りしていた。その年の夏は大阪大会決勝で牛島和彦投手(元中日、ロッテ)、香川伸行捕手(元南海・ダイエー)のバッテリーを擁する浪商に敗れたものの、全国区の強豪校。夏前の招待野球とはいえ、そのPLを完封したのだから当時話題にもなった。プロからもさらに注目される存在にもなったのだ。
それでも「プロはこれっぽっちも考えていなかった」という。「甲子園で準優勝とか上の方まで行ったレベルだったら、ちょっとは思ったかもしれないけど、1回戦で負けていたんでね」。その後、鹿島氏は社会人野球・鹿児島鉄道管理局に進み、ドラフト1位で中日入りした。とはいえ、野球人生の基盤が高校時代にあるのは間違いない。「久保監督の家には1年の時だけじゃなく、2年の時も3年の時も大会前になると必ず呼ばれた。2年、3年の時はキャッチャーも呼ばれて一緒に生活したんだよ」と懐かしそうに話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)