開幕戦の3回途中7失点KOに始まり、5月から6月にかけて5連敗も経験した。なかなか乗り切れなかったシーズン前半、「…

 開幕戦の3回途中7失点KOに始まり、5月から6月にかけて5連敗も経験した。なかなか乗り切れなかったシーズン前半、「田中将大に何が起きたのか?」とマスコミも原因探しに躍起になっていた。

 しかし、どれだけ厳しい状況に置かれたとしても、今を次につなげられるのが田中という男である。「勝った、負けた」「好調だ、不調だ」と周囲が論じているときにはもう、田中の意識ははるか先を走り、次なる戦いへの準備に入っている。



ヤンキースの一員として世界一を目指す田中将大

 今季も6月23日、ダルビッシュ有とのメジャー初対決で8回を3安打、9奪三振、無失点と、圧巻の投球を見せると、そこから3連勝。周囲の評価をあっさり覆してみせた。

 調子が悪いなかでもなんとか踏みとどまり、持ち直す。田中の内面の強さをあらためて見せつけられた思いがした。ただ、その能力も生まれながらにして持っていたわけではない。では、いつ、どこで、その力を身につけていったのだろうか。

 今年5月1日にNHKで放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組で、当時、駒大苫小牧のエースとして早稲田実の斎藤佑樹(現・日本ハム)と投げ合った2006年夏の甲子園決勝再試合の話になった。その試合、空振り三振で最後のバッターとなった田中は、直後、穏やかな笑みを浮かべていた。その理由について聞かれた田中は、「やっぱり、野球の神様っているのかな」と当時の心境を口にし、こう続けた。

「(あの場面は)ただ、自分のスイングを思い切りして、悔いがないようにやろうってことだけだったので……。それが、あの場面でできたというのが、僕のなかでは成長だったのかな、というふうに思っています」

 中途半端なスイングで力を出せずに敗れた中学時代の悔しい経験から3年、フルスイングできた自分への思いがあの笑みにつながったということだった。

 田中が語った”中学時代の悔しい経験”のことは、今でもはっきりと覚えている。それは、のちの田中将大へとつながる真の一歩を踏み出した”あの日”のことだ。

 2002年の7月7日、兵庫県にある明石公園野球場で日本少年野球連盟兵庫支部の決勝が行なわれ、宝塚ボーイズと神戸球友ボーイズが全国大会出場をかけて戦った。

 当時、田中は宝塚ボーイズの2年生で、捕手兼投手として、主に5番を打っていた。その日、午前中に行なわれた準決勝で田中は先発マウンドに立ち勝利を収めると、決勝は捕手として出場した。

 決勝戦、3回表に神戸球友ボーイズが3点を先制すると、宝塚ボーイズも6回裏に2点を返し、1点差で最終回(ボーイズリーグは7回制)を迎えた。

 宝塚ボーイズは簡単に二死を取られたが、そこから四球とヒットで一、二塁とし、さらにパスボールで二、三塁とチャンスを広げた。打席にはチームで最も頼りになる4番の3年生。すると、相手ベンチは敬遠策を選択して二死満塁とし、ここで田中が打席に入った。

 一打同点、さらにサヨナラのチャンスもあったが、田中はカウント1-1から外のボール気味の球に中途半端なスイングでライトファウルフライに倒れ、ゲームセット。一塁ベース手前で力なくスピードを緩めた田中は天を仰いだ。

 田中はこのシーンについて、番組の中でこう語っていた。

「中途半端なところで試合を終わらせたのがすごく悔しくて……。自分の、やっぱりできたことをできずに、気持ちの弱さが出たと思うし、(あの試合は)自分が変わる分岐点だったと思います」

 自らの弱さを痛感したと同時に、最後の夏になってしまった3年生に対する申し訳ない気持ち。その後、何度か田中を取材したことがあったが、この試合のことを度々、口にしていた。

 プロ1年目にインタビューしたときも、田中はこう語っていた。

「先輩たちに申し訳ないのと、自分に悔しくて……。でも、あの試合で自分は変わった。あれから負けたくないという気持ちが一段と強くなって、大きく成長していけたと思います」

 たしかに、あの日を境に田中は明らかに変わった。

 新チームでキャプテンになると、それまで以上に厳しく野球に打ち込み、冬場の練習では苦手だったランニングにも率先して取り組んだ。本来、前に出るタイプではなく、プレー中に感情を出すこともなかったが、練習や試合のなかで喜怒哀楽を表現するようになったのもこの頃から。

 たとえば、シートノックにキャッチャーとして入ったときなど、チームメイトに不甲斐ないプレーが出ると、監督より前に厳しい声を飛ばし、空気を引き締めた。

 残念ながら3年の夏も決勝で敗れ全国大会出場は果たせなかったが、勝負のかかった場面で抑えたときには、感情をむき出しで声を張り上げていた。

 また、あの七夕の試合で田中は、初めて人の思いを背負って戦うことを経験したのだと思った。先輩、そして仲間たちの思いだ。

 中学卒業後、田中は駒大苫小牧で北海道民の夢を背負い、甲子園優勝を経験。楽天では東日本大震災の被害を受けた東北のシンボルとして地元民の希望を担い、日本一を達成。そして今は、日本ファンの思い、日本野球のプライドを背負い、メジャーリーグの舞台で戦い続けている。

 背負うものはどんどん大きくなり、重くなっているが、田中のやるべきことは変わらない。

 宝塚ボーイズの監督である奥村幸治は、田中の変化を中学2年夏の段階よりひと足早く感じていたという。奥村曰く、それはキャッチャーからピッチャーもやるようになった1年夏からだった。

「ピッチャーとして試合を任せると、すごく責任感の強い子だというのがわかってきたんです。任されたことはきっちり応えようとするし、そのための準備もしっかりできる。もともと、のんびりした性格の子でしたが、こと野球になると責任を背負える人間だというのがわかった。こういう選手は信頼できますし、そのとき結果が出なくても、経験を必ず次に生かす。そこに気づいたとき、この選手は伸びると思いました」

 奥村自身、現役時代は投手としてプロを目指しながら、オリックス、阪神、西武でバッティング投手を務めていた経験を持つ。トップレベルの野球を肌で感じてきた奥村は、なにより一流選手たちの取り組み方、意識といった部分に凄みを感じてきた。

 のちに少年野球の指導をスタートさせると、技術よりもその部分に力を込めて伝えてきた。田中も宝塚ボーイズでの3年間で、いくつもの教えを受けた。

「中学生がプロの技術を真似ることはできないが、中学生がプロの意識を持つことはできる」

「いいときは誰でも抑えられる。悪いときにどれだけ踏ん張れるかが、その選手の評価」

「状況判断をしっかり、常に視野を広く持って、アンテナを張れ」

「見て、感じる力を磨き、相手が何を狙っているのか、雰囲気を感じろ」

 ここで学んだことは、のちの田中の野球人生の軸となった。

 中学3年時には投手としても、強肩強打の捕手としても、見る者の目を引く選手になっていた。しかし、”超中学級”の選手では決してなかった。それが”世界の田中”にまで上り詰めたのは、日々の意識と気持ちの強さ、そして野球に対する真摯な思いがあったからだ。

 その原点となったのが宝塚ボーイズであり、野球人・田中将大に決定的な影響を与えたのが15年前の今日だった。暑い、七夕の日に行なわれた一戦。あの日の敗戦によって、田中は変わった。いや、今につながる田中将大が生まれたのだ。