森脇浩司氏は兵庫・社高から1978年ドラフト2位で近鉄に指名された 元オリックス監督で野球評論家の森脇浩司氏は1978年…
森脇浩司氏は兵庫・社高から1978年ドラフト2位で近鉄に指名された
元オリックス監督で野球評論家の森脇浩司氏は1978年ドラフト会議で近鉄バファローズに2位指名されて、プロ野球の世界に飛び込んだ。もっとも兵庫県立社高時代は教師になることを第1目標に掲げており、当初は「正直、それほど興味もなかった」という。プロのスカウトに注目されはじめても「肩は強かったですけど、それ以外、チームの中で特別違うものを見せつけていたわけでもないし、なんでかなって思ったりしていました」と振り返った。
森脇氏の母校・社は2022年夏、2023年春に甲子園出場を果たした。「僕らの頃はいつも、いつも何かダークホース的存在というか、報徳学園、東洋大姫路、滝川、育英とか、そういった私学の壁はとんでもないくらい厚くて、ベスト8とかベスト4まで行ければ本当によくやったという感じだった。僕なんかも社ってそんな感じなんだなと思いながら野球をやっていましたけどね」と言い「甲子園に続けて出るなんてびっくりですよ」と後輩たちの躍進に目を細めた。
実際、森脇氏が在学中の社は1年秋と2年春のベスト8が最高。夏は1年時が2回戦、2年時、3年時は3回戦で敗退した。「2年の時は3年にすごい人たちがいたので、ダークホースより期待されるような評価を受けていたんですけど、それでも夏は3回戦負け。僕が3年の時はそんなに強くなかったので、何とか1試合でも多くやりたいなというのはありましたけど、それでもやっぱり夏は3回戦で終わりました」。
そういう意味では不完全燃焼の高校時代だった。「2年と3年の夏はシード校だったので1回戦はありませんでしたから、3回戦負けといっても、2試合で終わったわけですからね。非常にそういう意味では物足りなかったですよね」。遊撃手兼投手。3年夏の3回戦は飾磨工に2-4で敗れたが「確かエースの肩の調子が悪くなって僕が途中からマウンドに上がって、最後まで投げ切ったんじゃないかと思います」。そんな中でプロから高く評価されたのだ。
兄・忠之さんは社高を初めて甲子園に導いた高校球界の名将
森脇氏は3歳上の兄・忠之さんの後を追うように社に入学した。「兄貴は社から大学に進んで体育教師になって、社の野球部監督を務めて、社の校長先生にもなったんですが、僕ももともとは体育教師になりたいと思っていたんです」。忠之さんは2004年春に社を初めて甲子園に導いた名将で、現在は神港学園野球部の総監督。社OBの阪神・近本は教え子だ。森脇氏が高校生の時、忠之さんは大学生。当時は兄と同じ道を進んでいくのだろうと当たり前のように考えていたそうだ。
プロ野球に関しては「王さん、長嶋さん、村山さん、吉田義男さんみたいな有名な方は知っていましたけど、強い興味はありませんでした」というが、そんな流れが変わり始めたのは高校2年秋の県大会。プロのスカウトを初めて意識したという。「当時の神戸市民球場。試合が終わって、球場を出た時に横浜のスカウトの方に『次も見に行かせてもらうね』と声をかけられた。その後、同じ日に、巨人のスカウトの方からも……」。
いろんな思いが交錯した。「その試合はピッチャーで先発していた。その時のバント処理とかの守備も評価されたんじゃないかと思いますけど、正直、なんで僕なんかに、と思いましたよ。まぁ同時に、ひょっとしたら、頑張ればプロ野球選手になれるのかなって思ったりもしました。子ども心にうれしいことではありましたけどね」。
年が明けて、他球団のスカウトも森脇氏を見に来るようになった。「肩は強かった。遠投は正直好きでした。125メートルは投げていましたからね。でも遠投競争とかあるわけではないし、自分のチームの中でも特別違うものを見せつけていたわけではなかったんですよ」。困惑半分、うれしさ半分。そんな日々がさらに続いた。「ドラフト2位にもびっくりしました。本当に驚くことばかりだったんです」。思ってもいなかった森脇氏のプロ野球への道はそうして切り開かれていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)