サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは、サッカーに役立つのか、役立たないのか、分からないもの。

■ストイコビッチの妙技

 ことしスタートから30年を迎えたJリーグが、過去30年間の「ベスト・アウォーズ」を企画、そのひとつ、「ベストシーン賞」に選ばれたのが、名古屋グランパスのドラガン・ストイコビッチの「雨中のリフティングドリブル」だった。

 1994年第2ステージの第11節、9月17日に岐阜の長良川競技場で行われたジェフユナイテッド市原(現千葉)との試合。岐阜市は前日から大雨に見舞われ、2日間の降水量は168ミリにも達した。試合中にも雨はやまず、ピッチには水が浮き、あちこちに水たまりができる悪コンディションである。

 市原の左CKを名古屋のセルビア人FWドラギシャ・ビニッチが打点の高いヘディングでクリア。ストイコビッチはそれをペナルティアークのすぐ外で受けたが、ボールが水たまりに落ちたのを見てすかさず右足ですくい上げ、そのままリフティングしながら全速力でハーフラインあたり(ラインはすでに見えなかった)まで前進、左足で前線を疾走するFW森山泰行の前のスペースに見事なパスを送った。ただ市原のDF中西永輔が懸命に戻って水しぶきを上げながらスライディングタックル、シュートには至らなかった。

 最初にボールを浮かせたものを含み、約4.5秒の間に、ストイコビッチは走りながら右足で5回、左足で1回、計6回ボールにタッチした。悪コンディションのなか、ボールを浮かせながら通常のドリブルと変わらないスピードでの前進は、まさに「ワールドクラス」のテクニックだった。

■誰もが通った道

 「ボールリフティング」は、日本のサッカー少年・少女なら誰でも最初にやったに違いない練習である。1人1個のボールをもち、それを落とさないように足で突き上げるのである。3回ほどしかできないものが10回を超えると、一挙におもしろくなる。そして20回、50回とできるようになるころには、さらに回数を伸ばすために進んで「努力」をするようになる。

 多くのコーチたちは、この「努力」の姿勢こそ、技術向上の大きなカギだと言う。ボールリフティングは集中力を養い、同時に、ボールの中心をとらえる感覚を身につけさせ、そしてさまざまな状況にときに片足だけで対応しなければならないサッカーの「ボディコントロール」の養成、必要な体の動かし方を身につけさせる。ただし、ボールリフティングがうまくなる、イコール、サッカーがうまくなることでもないところが微妙だ。

■日本への到来

 「ボールリフティング」を日本のサッカーにもたらしたのは、1960年代に日本サッカーに革命的な指導をもたらし、メキシコ・オリンピック銅メダルという快挙に導いたドイツのデットマール・クラマー・コーチであったと言われている。だが積極的に導入したわけでもなかったようだ。

 クラマーさんはすべての技術を当時の日本代表たちより正確にやって見せることができたが、ある日、選手たちの前でいきなりボールリフティングをやり始めた。まるで曲芸師のように足元から落とさずにボールを突き続けるプレーに選手たちが言葉を失うと、こう言ったという。

 「リフティングは余興でやるものだ。サッカーとは何の関係もない。イタリアにはいちどに5個のボールをリフティングする人間がいたが、プレーはダメだった。勝つことに結びつかない技術には意味がない」

 とはいっても、ボールリフティングによってキックの感覚などが養われることも理解され、日本代表選手たちも練習開始前などにリフティングをするようになった。それが所属チームの選手たちにも伝わり、やがて日本中の少年・少女たちがボールリフティングをするようになったと思われる。

■女子日本代表選手の礎

 やがてとんでもない大会が現れる。「ペレ杯争奪全日本ジュニアボールリフティング大会」。全国の小学生を対象にしたボールリフティングのコンテストである。西武百貨店が企画し、すでに引退していた「サッカーの王様」ペレを招き、1980年の10月12日に東京・池袋の同百貨店の屋上で第1回大会が開催された。参加したのは、全国の予選大会で選ばれた73人である。

 優勝したのは、栃木県河内町(現在は宇都宮市)の田原小学校のなんと4年生、しかも女の子だった。「ヘディング5分間」「自由5分間」という課題で、686回と748回というとてつもない記録をつくり、5年生や6年生の男の子たちをしのいだ。ペレからほっぺたにチュッとされ、大きな優勝カップを受けた少女は、恥ずかしそうな顔をしてうつむいた。

 少女の名前は手塚貴子。後に読売ベレーザの一員となり、日本女子サッカーリーグでは1991年に18試合で29ゴールを記録してMVP、得点王、アシスト王の「三冠」に輝いてベレーザを無敗優勝に導いた。日本女子代表でもFWとして42試合に出場し、18ゴールという記録を残している。クラマーさんが言うようにボールリフティングでサッカーがうまくなるわけではないかもしれないが、選手時代の彼女のプレーのボールタッチの繊細さは、明らかにボールリフティングのたまものだったように思う。

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