川端順氏は1987年に救援で最高勝率を獲得…「超二流になれ」の言葉に発奮した プロ2年目の1985年にセ・リーグ新人王に…

川端順氏は1987年に救援で最高勝率を獲得…「超二流になれ」の言葉に発奮した

 プロ2年目の1985年にセ・リーグ新人王に輝いた元広島投手の川端順氏(徳島・松茂町議)は4年目の1987年に10勝2敗2セーブ、リーグ最高勝率(.833)を残した。57登板で先発はゼロ、中継ぎで規定投球回にも到達し、防御率2.42はリーグ2位の成績だった。実は首脳陣からはシーズン終盤に先発して、そのタイトル獲りも目指そうと言われたが「もういいです」と断ったという。ショックな一件があったからだった。

 川端氏はプロ3年目の1986年から中継ぎ中心で起用された。2年目の1985年に2完封を含む11勝をマークしたが、3年目はキャンプで右肘を痛め、1軍に上がったのは5月下旬。そこからは、主にストッパーの津田恒実投手につなぐセットアッパーを務め、3勝3敗2セーブだった。「右肘を故障したのは新人王を取って浮かれていたからだったね。オフに歌合戦じゃなんだかんだ、いろんなところに呼ばれて、体の手入れをしていなかったんでね」。

 1986年、広島はリーグ制覇。惜しくも西武に敗れた日本シリーズでも川端氏は4試合に登板したが、オフは前年を反省し、自身の体のメンテナンスに神経をとがらせた。同じ失敗は絶対に繰り返さないとの思い。4年目こそは先発で頑張りたいとの目標もあった。だが、その願いはかなわなかった。「(4年目の)春のキャンプで(監督の)阿南さんと(1軍投手コーチの)安仁屋さんに呼ばれて『今年は最初からリリーフで行くぞ、先発はない』って断言されたんです」。

 この通告にがっくりしていると、三村敏之1軍守備走塁コーチに「どうしたんだ」と聞かれた。「やっぱり目指すは先発じゃないですか」と正直に打ち明けると、こう言われたそうだ。「なぁ、バタ。お前は職人みたいなピッチャーや。一流のピッチャーが先発なら、お前は超二流ピッチャーのいぶし銀になれ。わしだって山本浩二さんとか衣笠さんとかみたいに一流にはなれなかったけど、超二流にはなったつもりだよ」。

 川端氏はその言葉を聞いて「モチベーションが上がった」と振り返る。「僕は思いますよ。コーチの言葉とか、監督の言葉って大事なんだなってね」。おかげで気持ちを切り替えてシーズンに臨めた。リリーフだけでチームに貢献し、前半終了時点で6勝0敗1セーブの成績を残した。川端氏にとっては満足の数字だった。だが、オールスターゲームには出場できなかったことで、再びわだかまりが生じた。

首脳陣が先発を提案も断り…投手コーチに「行きません」

 その年の球宴でセ・リーグを指揮したのは前年優勝の広島・阿南準郎監督。川端氏は監督推薦で選ばれると思っていたが、名前はなかった。「安仁屋さんに呼ばれて『辛抱せい、後半、まだまだ投げてもらわないといけないから休め』と言われた」。これがショックだった。

「僕はやっぱりチームのためにしかできないんだなぁって思った。剛速球投手でもないし、中途半端なんやなぁ、器用貧乏のピッチャーなんだなぁってね。華やかさが自分にないのはわかっていたから、ある程度、野球をやっていればいいかなと思うようになった」。三村氏の言葉で上がったはずのモチベーションが再び下がった。

 その年、防御率のタイトル獲得のチャンスがあった。シーズン終盤になって先発に回ってイニング数を投げてタイトルを狙おうと言われた。だが、もはやそんな気分にもならなかった。「最後の方で、先発でいくぞって言われても、何か寂しさがあったんですよ。だから、先発しませんって断った。安仁屋さんに言われても、行きませんってね。三村さんには『安仁屋さんに聞いたぞ、何、意地張っているんだ。超二流のいぶし銀だってタイトルを狙ってもいいじゃないか』って言われたんですけどね」。

 時が経って「今では、あの時のことを後悔しています」と川端氏は苦笑する。「あの時、例え先発に回っても、タイトルは取れなかったかもしれないけど、ひっくり返す可能性はあったわけだからね。ホント、今は思いますよ。なんで投げなかったかなぁってね」。だが、当時はどうしようもない感情だった。その気持ちを覆すことはどうしてもできなかった。

※6月6日午後4時30分、原稿の一部を修正しました。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)