連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第31回 斎藤佑樹、大学野球のラストイヤーは悔しい春から始まった。早大の第100代主将として、勝ったほうが優勝という早慶戦に敗れ、3シーズン続けて優勝を逃すこととなった。またドラフト候補のエース…

連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第31回

 斎藤佑樹、大学野球のラストイヤーは悔しい春から始まった。早大の第100代主将として、勝ったほうが優勝という早慶戦に敗れ、3シーズン続けて優勝を逃すこととなった。またドラフト候補のエースとしては、入学以来、初の負け越し(2勝3敗)を喫し、期待に応えることができなかった。



4球団による競合末、交渉権を獲得した日本ハムGMの山田正雄氏(当時)と斎藤佑樹

【東京六大学史上6人目の30勝、300奪三振】

 4年の時というのはいろんな想いがあったはずなんですが、覚えていることは少ないんです。高校の時もそうでしたが、悔しい負けがあったからこそ、喜びも大きかったんじゃないかと思います。

 運気が上がる時というのは、ドーンと下がるからこそ上がるわけで、起承転結の"転"がなければ物語は盛り上がりませんよね。大学3年の時から悔しい経験をしてきて、4年の春はチームとしてもピッチャーとしても満足できなかった。だから最後のシーズンは優勝したかったし、ピッチャーとしても有終の美を飾って、意味のある(起承転結の)"結"にしたいという気持ちはあったと思います。

 でもなぜか、あの試合、この試合、と言われると、どんな試合だったのか、あまり思い出せないんですよね......あ、そういえば150キロが出たのは覚えています。あれは4年の秋でしたよね(2010年9月11日、開幕戦となる法大1回戦)。

 右バッター(法大の5番、土井翔平)がアウトコースのちょっとボール気味の球を見逃して、三振になった球だったという記憶があります。ずっと目標にしていた大台でしたし、夏の大学JAPANの試合に日本代表として出た(第5回世界大学野球選手権)時の力を入れずにビューッといく真っすぐに手応えを感じていましたから、その感覚が数字となって出たことは素直にうれしかったですね。

 300奪三振? それは覚えてないですね......明大戦(9月25日、明大1回戦、明大の2番、上本崇司から)ですか? その数字は達成したいとは思っていましたが、この三振が300個目だという意識はなかったんでしょうね。

 通算30勝も記憶にありません。ああ、東大戦......あれっ、東大には負けたんじゃなかったかな。内容はともかく、負けたことは覚えています(10月2日、その時点でリーグ戦35連敗中だった東大との1回戦に先発、7回を投げて被安打5、3失点。2−2の6回、ワンアウト一、二塁から6番の舘洋平に勝ち越しタイムリーとなるライト前ヒットを打たれて、過去7戦7勝だった東大に初黒星を喫した)。

 30勝目が東大戦ということは、僕が負けたから3回戦があって、そこで先発して勝ったんですね。2試合とも自分のピッチングはほとんど覚えていないんですが(負けた東大戦から中1日、9回を投げきって被安打4の完封)、通算30勝と300奪三振の両方をクリアできたこと(史上6人目、過去に達成したのは法大の江川卓、早大の織田淳哉、明大の秋山登、早大の三澤興一、慶大の加藤幹典の5人)は、大学での4年間、大きなケガもせず、メンバーから外れることもなく、しっかりとリーグ戦を戦えた証でしたから、そこは誇っていいところだと思っています。

【希望は在京球団】

 4年秋のリーグ戦は早稲田と慶應に優勝の可能性を残したまま、最後の早慶戦を迎える展開になっていました。でも、その前にドラフト会議がありました。高校の時にはプロを選ばなかった僕ですが、大学での4年間を経てプロへ行くことは目標でしたから、ドラフトは大事な一日でした。

 いくつかの球団が應武(篤良)監督と両親と面談しましたが、僕はドラフト前には関係者には会っていません。ヤクルトとロッテが早々に1位指名を公言してくれていて、それはもちろん僕も知っていました。この2つの球団はずっと僕を見てくれていましたから、すごくありがたかった。僕は関東の球団に行きたいと思っていましたし、とくにヤクルトは神宮球場を本拠地としていたので、どちらに指名されても喜んで行くつもりでいました。

 ドラフト間際になると、ソフトバンクも1位でくるという話が聞こえてきました。早実の大先輩、王貞治さんが球団の会長をなさっていて、それも光栄なことでした。ソフトバンクは関東の球団ではなかったけど、僕にとってこの3球団はどこも同じくらい、行きたい球団でしたから、ドラフト当日はどこに行くことになるんだろうと、不安よりもワクワクしていましたね。

 日本ハムというのは、まったくのノーマークだったんです。事前には、指名してくれる可能性すらまったく聞こえてきませんでしたし、まさか名前が挙がるとは思ってもいませんでした。

 ただ一度だけ、「ああ、そういえば」という出来事がありました。4年の秋の、あれはシーズン前か、シーズン中だったか定かでないんですが、日本ハムの山田(正雄)GM(当時、現在はスカウト顧問)が早稲田のグラウンドに来ていたことがあったんです。

 本当に失礼な話なんですが、僕、その頃、山田さんの顔と名前が一致していませんでした。新聞の記事で『山田GM』という方が日本ハムの編成を担当していることは知っていましたが、山田さんがグラウンドに足を運んで下さった時、誰だかわかりませんでした。

 早稲田のブルペンはレフトの北側にあるんです。ネット裏のほうから行くと、グラウンドのなかを通らないとたどり着けない場所なんですね。だから基本的には関係者しか入れない。ただ、ひとつだけ別ルートがあって、ライトのフェンスのうしろ側をずーっと歩いていくと、アメリカンフットボール部のグラウンドがあって、乗馬部もあったりして、そういう中を抜けてくればブルペンまで来ることはできる。でも、ふらっと来られるようなところじゃないのは間違いありません。

 ところがドラフト前のある日、そっちの別ルートを通ってブルペンに入ってきたおじさんがいたんですよ(笑)。ふだんは選手しか通らないルートですし、そもそも選手しかいないはずのブルペンに、スーツをバリッと着こなしたおじさんが入ってきた。

 福井(優也)、大石(達也)と「近所のおじさんが入ってきちゃったのかな」なんて、ひそひそ話をしていたんですが、そのおじさんこそが山田GMだったんです。その時、一学年下の後輩が「すみません、関係者以外は入れないんですけど......」と言いにいったはずです。そこで山田さんが「日本ハムのスカウトです」と名乗って、ああ、そうだったのか、あの人が超有名な山田さんか、となった。ただ、その時はたぶん大石を見に来たんだろうなと思っていましたし、まさか僕を見に来てくれていたとは想像もしませんでした。

【日本ハムからまさかの1位指名】

 それがいざドラフトとなったら、日本ハムも僕を1位で指名してくれたので、本当にビックリしました。指名する前は何のアクションも起こさないという話は聞いていましたが、それにしても、こんなに何にもないんだということにはあらためて驚かされましたね。應武監督もビックリしていた......何も連絡がなく指名をしてくることもあるんだなぁ、と(笑)。

 ヤクルト、ロッテ、ソフトバンク、日本ハム......4球団が1位で指名してくれて、クジ引きの結果、日本ハムが指名権を獲得した瞬間は寮のテレビで見ていました。真っ先に思ったのは、北海道は高校の時に甲子園の決勝で戦った駒大苫小牧のふるさとだ、ということでした。

 僕は群馬で生まれ育って、高校から東京へ出てきて、なんとなく関東に馴染みがありました。だから僕はずっと関東にいるんだろうなという思い込みがあったんです。それが人生を左右するドラフトで北海道と縁が結ばれるとは......それはまさかでしたし、僕の運命はこういう流れだったのかという気持ちになりました。

 もし関東にそのままいたら、自分のテリトリーのなかだけでものを見ていたような気がするんです。それがいきなり北海道へ行くことになって、ものの見方の幅はすごく広がるんじゃないかという期待はありました。僕は日本ハムに入って、北海道と縁を結んでもらって、本当によかったと思っています。

 巨人ですか? 正直、巨人への想いはありました......あったというより、強かったと言ったほうが近かったと思います。子どもの頃から巨人のことは好きでしたし、球界を引っ張ってきたリーダーですから、巨人に入りたいと思っていた時期もありました。でも、その時は巨人とのご縁はなかったということなのかもしれません。

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 ドラフトを終え、大学を卒業したらプロ野球選手として北海道日本ハムファイターズのユニフォームを着ることが決まった。プロからの高い評価を受けたことでピッチャーとしてひとつの目標を成し遂げた斎藤は、早大の主将として、もうひとつの目標だったラストシーズンのリーグ優勝を懸けた、最後の早慶戦に挑むことになる。

(次回へ続く)