東京五輪後に競泳競技を引退し、2022年からは日本体育大学大学院に進学した萩野公介さん。多くの選手が引退後に進む、指導者への可能性については、「無理ですね。指導というのは泳げない人を泳げるようにすることですが、正直、僕は泳げなかった経験が…
東京五輪後に競泳競技を引退し、2022年からは日本体育大学大学院に進学した萩野公介さん。多くの選手が引退後に進む、指導者への可能性については、「無理ですね。指導というのは泳げない人を泳げるようにすることですが、正直、僕は泳げなかった経験がないので何で速く泳げないかがわからないんです」と笑う。そんなふうに指導者ではない道を進んでいる萩野さんに、大学院で学んでいることを含め、この先に描いている未来について語ってもらった。
【前編】萩野公介が振り返る現役時代>>
大学院でスポーツ人類学を専攻している萩野公介さん
――まずは、今の生活について教えてください。
「今は大学院でスポーツ人類学を専攻していています。今まではスポーツという大きなくくりで見ていたものをもっと掘り下げて、その人の生い立ちや小さい頃のスポーツ体験を含めて個人を見ていくと、スポーツの価値全体の多様性につながってくるのではないかと思っています。競泳は、練習時間がめちゃくちゃ長くて物理的拘束時間が長い競技ですが、それがどのようにその人たちの生活や人生に溶け込んでいったのか。それが僕の研究したいテーマです」
――水泳を媒介にしてスポーツの意味を突き詰めていきたいということですね。
「人にとって泳ぐことはなんなのか、なぜ泳ぐのかということを知りたいんです。最初は狩猟採集生活だった人間は、食べるために泳いでいたし、走っていたと思います。でも、今はもう魚を捕るために泳ぐ必要はないのに泳ぎ続けていることが、スポーツ人類学的にも面白いと思ったんです。ある本で、フィリピンの貧困街出身のボクサーが、『ボクシングをするのは生きるため』と話していました。それと同じように僕は泳ぐことの意味を知りたいんですよね。
人それぞれの答えがあると思いますし、それがスポーツの多様性みたいなものにつながってくると思うんです」
――ひとえにスポーツと言ってもいろんな面を持っていますよね。
「直接競技力に関わることだけではなく、スポーツ史とかスポーツ哲学など、いろいろな分野があって、そのひとつであるスポーツ人類学を知っていきたいというのが一番です。今は修士の2年目で、そこまで広げられていないので、現段階では対象をトップスイマーに限定していますが、いつかは子どもから高校生、大学生くらいまでを10年間経過観察をして、追いかけた研究もやってみたいなと思います。その子たちがどういう思いで水泳をやっているか。もしかして水泳を辞めたとしたら、どういう思いで進路を選んだのかなど、いろんなものがあると思います」
――競技者だったからこそ、スポーツの本質を知りたいと思うのかもしれませんね。
「そうなんです。日本水泳連盟の古橋廣之進名誉会長が生前に『泳ぐだけでは魚に勝てない』とおっしゃっていたけど、本当にそのとおりだと思うんです。だから『じゃあなんで泳ぐの』ということを一生考えていきたいと思うんです。競技を突き詰めていくと、みんな最終的にその疑問が湧いてきて一度休むとか、立ち止まる時間が生まれるんだと思うんです。
東京五輪で自由形とバタフライの3種目と、リレー2種目で5冠を獲得したケーレブ・ドレッセル選手(アメリカ)にも取材をさせてもらいました。ケーレブ選手はレースの前などにちょっと話をした時、自分と似ているところがあるなと感じていましたし、彼も今は一度立ち止まって水泳に真摯に向き合っている選手なので、インタビューをさせてもらったんです。
――インタビューしてみていかがでしたか?
「選手はどうしても競技に夢中になると、自分をどこかに置いてしまうんです。彼の場合は優しすぎて、本当を言えば勝負師には向いていない性格で、でも試合になると勝つためにその優しい性格を取っ払わないといけない。だから試合になると本来自分が持っている性質と、勝つために求められる性質が乖離していくんです。それってものすごく苦しいことで、僕もけっこう似たところがあったんですよね。リオまでは『勝つ、勝つ、勝つ』と自分に言い聞かせて数年間できたけど、それが一生続けられるかと言われたら続かないなと。だからリオから引退するまでは『人ってなんで泳ぐんだろう』と考えたんです。そのあたりはやっぱり、器用な性格ではないんですね(笑)」
――競技と離れたスポーツの本質を、これからどういう形で学問として追求していこうと考えていますか。
「どこまでできるかわかりませんけど、東洋大に戻って恩返しをしたいという気持ちはあります。競技スポーツというのは感情をむき出しにするし、本当に人間くさいものなのではないかなと思うけど、それがなくても人間は生活していけるんですよね。そんななかでのスポーツの意味というのを、僕は見つけようとする道を歩んでいきたいというのが正確な答えかなと思います。
ただ、引退したからこそ思うのは、スポーツって何歳からでも、どのレベルからでもできるということです。今までトップ競技しかやってこなかったから、トップこそスポーツだと思っている部分があったけど、ウォーキングも軽いジョギングもスポーツだし、散歩しているのもスポーツなんです。だからスポーツはいろんな種類があると思うし、人それぞれのスポーツがあると思います。
水泳の普及ということだけではなくて、人間にとってのスポーツというものを探求していきたいし、その一助を担えればいいかなと考えています」
Profile
萩野公介(はぎの こうすけ)
1994年8月15日生まれ。栃木県出身。
幼少期から水泳を始め、作新学院高校在学時の2010年に日本代表に選出された。2012年のロンドン五輪には北島康介以来となる高校生で初出場を果たし、400m個人メドレーでは銅メダルを獲得する偉業を達成した。2015年には自転車事故で右ひじ骨折を経験したが、2016年のリオ五輪では400m個人メドレーで金メダル、200個人メドレーで銀メダル、800mフリーリレーで銅メダルを獲得。その後は不調に悩まされたが、2021年の東京五輪に出場し200m個メで6位入賞を果たし、大会後に引退を発表。引退後は日本体育大学大学院でスポーツ人類学を学んでいる。