サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回はキャプテンがこれを両手で持ち、チーム全員で「ウ~~~、ワッ!」という瞬間が至福。
■「勝利」と呼ばれた優勝杯
さて、ワールドカップも「初代」には「杯」の部分が付いていた。フランス人彫刻家のアベル・ラフルールのデザインによるもので、2体の女神が両手を挙げて八角形の「カップ」を支えている形。女神はルーブル美術館所蔵の「サモトラケのニケ(勝利の女神)」からヒントを得たものだったという。銀地に金メッキしたもので、高さはラピスラズリ製の台座を含めて35センチ、重さは3.8キロだった。
カップは大会前に無事完成し、1930年6月20日にFIFAのジュール・リメ会長とともにパリを列車で出発、大会に参加する欧州の4チーム(フランス、ルーマニア、ベルギー、ユーゴスラビアの代表チームと同じ船で南フランスの港から南米に向かった。そして7月30日の決勝戦後、優勝したウルグアイの協会会長ラウル・フデ会長に、リメFIFA会長から手渡された。
この「初代ワールドカップ」は、当初は「ビクトリー(勝利)」と呼ぶことにしていたようだが、やがて単に「ワールドカップ」と呼ばれるようになる。そして「ワールドカップの父」と呼ばれるリメ会長(在任1921~1954年)の大会への偉大な貢献を称え、1946年、正式に「ジュール・リメ・カップ」と呼ばれることになった。
■イタリア協会会長の機転
1939年に第二次世界大戦が始まったとき、カップは1938年大会(フランス)優勝のイタリア・サッカー協会が保持していた。戦争が始まると、イタリア・サッカー協会の会長であると同時にFIFAの副会長でもあったオットリノ・バラッシが機転を利かせ、保管してあったローマ市内の銀行から持ち出すと、ローマ都心にあった自宅にもち帰り、しばらくクツ箱に入れてベッドの下に置いていた。しかし戦争遂行のため、のどから手が出るほど金を欲していたファシスト政権が強奪して溶かしてしまうことを恐れ、第二の手を打つ。
イタリア半島の東、アドリア海に面するフォッジャ県のトッレマッジオーレという小さな町で農業を営む親戚の家。レオナルドとリゼッタという夫婦を説き伏せ、彼らが収穫したエキストラバージン・オリーブオイルの樽のなかに2年間漬けておいたのだ。そしてカップは、対戦後最初のワールドカップ、1950年ブラジル大会に合わせてFIFAに返還された。リメ会長をはじめ、戦後できるだけ早く大会を再開したいと考えていたFIFAの幹部たちは、「カップ無事」のニュースに大きく力づけられたという。