U-20ワールドカップが開幕した。日本代表はセネガル代表に1-0で勝利。この白星発進のポイントを、サッカージャーナリス…
U-20ワールドカップが開幕した。日本代表はセネガル代表に1-0で勝利。この白星発進のポイントを、サッカージャーナリスト・後藤健生がつづる。
■開催地の変更
もともと、この大会はインドネシアで開かれることになっていた。
ところが、ヨーロッパ予選でイスラエルが出場権を獲得したことでインドネシア国内から「開催反対」の声が上がった。世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシアではパレスチナと対立するイスラエルに対する厳しい感情があったからだ。そして、2024年に大統領選挙が控えていることもあって、政治家たちがこうした声に敏感に反応したのである。
そのため、FIFAはインドネシア開催を断念。だが、FIFAは「5月20日開幕」という開催日程は動かすことなく代替開催国を募った。インドネシア開催中止が決定してから大会の開幕まで2か月足らずしかなく、24か国が参加して3週間以上の日程で開催される大規模な大会を肩代わりする国があるのかと思われたが、インドネシア開催中止が決まるとすぐにアルゼンチンが手を挙げた。
会場やホテルなどの手配や政府保証の取り付けなど大会開催へのハードルは高かかったはずだ。たしかに、サッカー大国のアルゼンチンだけにスタジアムは準備できるだろうし、2001年には同大会(当時は「ワールドユース選手権大会」)を開催した経験もある。しかし、それにしても短期間に大会受け入れを決めたのは驚くべきことだった。
実は、アルゼンチンは1月にコロンビアで開かれた南米ユース選手権で決勝ラウンドにも残れず、出場権を逃がしてしまっていたのだ。しかし、開催権を獲得すれば開催国枠で出場することができる。アルゼンチンにはそんな思惑もあったと言われている。
■アルゼンチンの思惑
アルゼンチンは、この大会に過去6度と最多優勝回数を誇っている国だ。
最初の優勝が1979年の日本大会で、ディエゴ・マラドーナが最優秀選手賞に輝き、ラモン・ディアス(元横浜マリノス。Jリーグ初代得点王。現アルヒラル監督)が得点王を獲得した。マラドーナは同年夏のヨーロッパ遠征ですでにフル代表の中心選手として活躍していたが、FIFA主催の公式大会へのデビューがこの1979年のワールドユース大会だった。
その後、1995年から2007年の間に、ホセ・ペケルマンの指導の下で5度も優勝。2005年にはリオネル・メッシ(FCバルセロナ=当時)を擁するチームが優勝を果たしている。
ペケルマン時代にはU-17代表やU-20代表で活躍した選手がそのままフル代表でもワールドカップで活躍するという流れができており、アルゼンチンにとってはこの大会は強化のための重要な大会なのだ。
昨年のカタール・ワールドカップで3度目の優勝を遂げたアルゼンチンだが、「メッシ以後」のことを考えなければならない時期に来ている。アルゼンチンとしては、この大会でU-20代表選手に経験を積ませたかったのだろう。
■日本が負うハンディ
こうしてアルゼンチン開催が決まったのだが、開催地が変更されたことで日本チームにとっては難しい大会となってしまった。
大会がインドネシアで開催されていれば、日本からの距離も近く、時差もほとんどないのでアルゼンチン開催に比べてはるかに調整しやすかったはずだ。
移動距離の問題は重要だ。
たとえば、2022年のワールドカップでは西アジアに属するカタールで開催された。そのため、アジア勢にとっては移動距離が短くて済んだのでアジア勢が活躍した(なにしろ、サウジアラビアに至ってはカタールと陸上国境を接している)。
しかし、その8年前のブラジル・ワールドカップでは“ホーム”の南米勢の躍進に対して、長距離移動を強いられたアジア勢は“全滅”だった。
また、アルゼンチンは南半球にあるので大会が開催される5月、6月は晩秋から初冬に当たる。南米大陸でも緯度の高いアルゼンチンの冬は寒さに見舞われ、ラプラタ川(パラナ川)で霧が発生することも多く、湿気の中で体温が奪われる。
インドネシアでの開催となれば、蒸し暑さの中の試合となったはずだ。日本の選手は夏の蒸し暑さという環境には慣れているし、東南アジア遠征の経験のある選手も多い。一方、ヨーロッパ勢などにとっては蒸し暑さはやりにくい環境だったはずなのだが、涼しいアルゼンチンでならヨーロッパ勢も力を発揮しやすくなる。
もちろん、アルゼンチンをはじめ南米勢は“ホームアドバンテージ”を持っていると考えていい。