鈴木孝政氏は落合竜1年目にヘッドで入閣…3年契約も1年で退団した 予想通りの入閣だった。指揮官を手助けするためにユニホー…
鈴木孝政氏は落合竜1年目にヘッドで入閣…3年契約も1年で退団した
予想通りの入閣だった。指揮官を手助けするためにユニホームを着たが……。中日OB会長で野球評論家の鈴木孝政氏は1989年シーズン限りで現役を引退した。解説業を経て1995年から1997年までは主に中日2軍投手コーチとして投手育成に力を注いだ。その後、再びネット裏での生活に入り、2004年シーズンに落合博満監督率いる中日に復帰。3年契約でヘッドコーチに就任した。ところが、鈴木氏にとっては思わぬ事態が起きた。
鈴木氏は落合氏と現役時代から良好な関係にあった。落合政権が誕生した際、鈴木氏が入閣するのは、既定路線のように見えるほど、中日では知られた間柄だった。「ピッチングコーチをやる予定だった。落合さんからは、俺はピッチャーのことはわからないから、孝政頼む、ってそんな感じだったからね。投手の方は俺がやるんだなって思っていた」。だが、球団はヘッドコーチとして招聘。スタートからズレがあった。そして、そのかみ合っていない部分が広がっていった。
肩書きはヘッドコーチから1軍投手チーフコーチに変わったが、それだけでは終わらなかった。「投手コーチには森繁和がいて、現場に入ってみたら、俺っていらないのかなって思った。俺だってバカじゃないから雰囲気ですぐわかるよ」。結果、シーズン途中には2軍投手コーチに立場が変わることになった。2004年6月13日のヤクルト戦(秋田)が落合中日の1軍コーチとしての最後の試合だった。
「秋田で言われた。(名古屋の)残留組を見てくれって。次の日、秋田から新幹線で帰った。飛行機の席が取れなかったんでね」。乗り換えのため東京駅で降りたら中日スカウト陣と遭遇したという。「1軍は秋田から広島に移動の日ってみんな知っていたから、びっくりしていた。『どうしたの』『何があったの』って」。つらい旅だった。もうやめるしかないと考えたという。
周囲は「絶対やめるな」も「それだけは駄目だった」
「3年契約だから、普通だったら、そのままいてもいいよね。いい給料をもらえるんだから。でも俺はそれだけは駄目だったね。かっこつけているわけじゃないんだよ。本当にそれだけは駄目だった。周りからは『絶対やめるな』って言われたけどね。女房が一番困ったと思うよ。でも、自分が死ぬ時に悔いを残すから俺はやめると言ったら何も言わなかった」。ただし、シーズン途中で投げ出すことはしないとも決めた。
「球団は気を使ってくれて、孝政、入院しろって言ってくれた。1回、理由としてね。それは断った。いや、そんなのいいですから、最後までやりますからって2軍で普通に仕事をした。2軍は優勝して宮崎でのファーム選手権にも勝った。ビールかけも全部普通にやったよ」。そして、わずか1年で落合中日から去った。
鈴木氏は何とも言えない表情で当時を振り返った。「落合さんはマスコミにあまりしゃべらないでしょ。そしたら記者はみんな俺のところに来るでしょ。あっちがしゃべらないから、聞きにくるでしょ。何にもネタがなかったら、記者も仕事にならない。それなりにしゃべってやればいいじゃない。それも仕事だからね、プロの。そういうのもひとつ原因だったと思うよ。俺はただ監督の手伝いをしようと思っただけだったけど、ちょっと違っていたね……」。入閣時には思ってもいなかった溝。精神的にも苦しい時期だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)