1993年6月5日、史上初の兄弟ボクサーによる日本タイトルマッチが東京・後楽園ホールで行なわれた。同じボクシングジムに所属する兄の江口九州男(くすお/本名・光夫)と弟の勝昭がストロー(ミニマム)級王座をかけて闘った。タブーとされている「兄…

 1993年6月5日、史上初の兄弟ボクサーによる日本タイトルマッチが東京・後楽園ホールで行なわれた。同じボクシングジムに所属する兄の江口九州男(くすお/本名・光夫)と弟の勝昭がストロー(ミニマム)級王座をかけて闘った。タブーとされている「兄弟・同門対決」からまもなく30年。現在、都内の寿司店で働く勝昭氏(52歳)を取材した。(文中敬称略)


元プロボクサーの江口勝昭氏。1993年、22歳の時に兄の九州男と日本タイトルを争った

「話題性優先」の兄弟対決

「冗談だと思いましたよ、兄弟対決なんて。兄弟というのもそうだし、まさか同じジムの選手同士がやるとも思わないじゃないですか。でも、会長とマネージャーに呼び出されて、本気だと。俺は10回くらいは断りました。兄貴だって断ってた」

 勝昭は2歳上の兄との試合をジム側から持ちかけられた当時の心境をこう振り返る。繰り返し出場を打診されたのち、試合を決めた経緯に関して後悔があるという。

「試合をやるか、ボクシングをやめるかっていうような選択だったから俺のほうからついにやるって言ったんです。日本ランキングに入ってこれからという時期だったからボクシングをやめる選択肢はなかった。やるしかない、そっちのほうがラクというか。それでマネージャーから『弟はやるって言ってるぞ』と伝えられた兄貴は怒ったんですよ。その後も『お前から言ったんだぞ』と兄貴によく言われました。兄貴の前でやる、やらないを言えばよかったと今も思います。まだ若くてそこまで頭が回らなかった」

 日本ランキング1位でタイトル戦出場が決まっていた九州男の相手に、ランキング上位に入ったばかりの勝昭の名前が挙がったのはなぜか。実は、ある思惑があったという。

「兄弟でやったほうが話題になるっていうジムの考えだったんです。話題性優先だったんですよ。狙い通り、テレビや雑誌の取材がたくさん来たし、チケットはめちゃくちゃ売れました。兄貴は闘志むき出しのタイプで、逆に俺はその頃かなりおとなしくて、性格が違いすぎるのも面白かったんじゃないですかね」

 話題性をさらに高める背景があった。福岡が地元の江口家は、ふたりを含む14人きょうだいの大家族で、テレビ番組にもたびたび出演していたのだ。

 大家族に生まれた6男と7男がそろって上京し、ボクシングで日本一を争う......そんな筋書きに数々の特集が組まれた。世間の注目度が高まる一方、家族や近しい友人、同僚からは「本当にやるのか」「やめたほうがいい」と心配の声が寄せられていた。


江口家の14人きょうだいと父。勝昭氏が幼い頃、テレビ番組の撮影で松田聖子が実家に訪れた

 写真提供/江口勝昭

●「こいつ、マジで殴ってきやがったな」

 そしてタイトルマッチ当日。1ラウンド、先制したのは九州男だった。左ボディブローが決まり、勝昭はダウンした。

「こいつ、マジで殴ってきやがったなとめちゃくちゃ思いました。俺はやるしかないと思ってたものの本当に殴り合えるのか半信半疑で、少し遠慮してた部分もあったかもしれない。でも、あのボディで完全に目が覚めた。試合を早く終わらせるために立つなって言ったやつもいたけど、それは茶番だから」


1993年6月5日に後楽園ホールで行なわれたストロー級王座決定戦の兄弟対決

 撮影/ボクシング・ビート

 2ラウンド、闘志に火がついた勝昭が今度は左フックでダウンを奪う。その後は九州男が試合を優位に進め、決着は6ラウンド。九州男が左アッパーを決めTKO勝ちを果たした。

 しかし、チャンピオンの座についたにもかかわらず、九州男に笑顔はなく、コーナーに顔をうずめていた。

「最後は『あしたのジョー』に出てくるようなアッパーでしたよ。わざともらったのかって聞かれるような面白いパンチで俺も避けられると思ったんだけど......。兄貴のほうが一枚上手だった。今もたまに(アゴが)痛むんですよ、ビリビリって」

 勝昭の心のなかに試合前にあったほのかな自信が打ち砕かれたが、すがすがしい表情でこう語る。

「ジムでのスパーリングとかだと兄貴を押している時もあって、もしかしたら勝てるかもしれないっていう気持ちもあったのは確かです。だけど、やってみて3ラウンドくらいから、うまいな、勝てないなって正直思っていました。超えられなかった」



インタビューに答える勝昭氏

●兄と弟、昔と今

 14人いるきょうだいのなかで年齢も近く子どもの頃から関わりが深かったふたり。中学時代には九州男が学校の副番長を張り、もの静かな勝昭の面倒を見ていた。勝昭が東京に憧れ、その後ボクシングを始めたのも、先に上京しボクサーになった九州男の存在があったからだ。

「中学校を卒業したあとは地元でいろんなバイトを転々としていて。悶々とした毎日を送ってました。そんな時に成人式で兄貴が帰ってきた。それで『俺も東京に行きてえな』って言ったら兄貴が『いいよ、来いよ』って。当時兄貴が働いてた寿司屋の仕事を紹介してもらって東京で暮らし始めました。俺は頭が悪い人間だから何もできないけど、ボクシングに出会っていろんな人とつながれました。それは、感謝してますよ」


プロボクサー時代の勝昭(中央)

 写真提供/江口勝昭

 直接対決後、九州男は2回のタイトル防衛に成功している。若かりし日々をともに過ごしたふたりだが、引退後は顔を合わせる機会は減ったという。

「別の兄弟から『お前らは兄弟対決をやってから(関係が)おかしくなった』とよく言われます。別に俺はその試合のせいだとは思わないし、もともとタイプが違ったから。最後に会ったのは数年前ですね。俺の家に兄貴のボクシングのトロフィーとか兄弟対決の時の額縁とかがずっと置いたままだったので取りに来いって言って。それから連絡はとってないです」

「伝説の」「史上最悪の」「最も痛々しい」などという冠がついて語り継がれる兄弟対決から30年の月日が経とうとしている。試合を引き受けたことに今、後悔はないのだろうか。

「他の人に迷惑をかけたなとは思っています。俺たちふたりを応援してくれた仲間とか家族には痛々しい記憶しか残らないと思うから。なんというか......やらないほうがいい、やんなきゃよかったと思うこともあるけど、俺はやってよかったと思うんです。自分の人生にとって財産になっているものもあるから。だから後悔はない。でもやるんなら、もうちょっとトレーニングを積ませてもらってからやりたかったかな」



現在は東京都内の寿司屋で寿司職人として働く

【プロフィール】
江口勝昭 えぐち・かつあき 
1970年、福岡県生まれ。14人きょうだいの7男。1990年にライトフライ級でプロデビュー。1993年の日本ストロー(ミニマム)級王座決定戦で、同じ角海老宝石ジム所属で兄の九州男(本名・光夫)と史上初の兄弟・同門対決を行なう。結果は6ラウンドTKO負け。1997年1月の現役引退まで成績は14勝(2KO)10敗1分け。現在は、東京都内の寿司店に勤務。