鈴木孝政氏は高校1年目で開幕1軍切符も1登板で2軍…右肩痛で離脱した プロでの“地獄”を味わった。元中日投手で現OB会長…

鈴木孝政氏は高校1年目で開幕1軍切符も1登板で2軍…右肩痛で離脱した

 プロでの“地獄”を味わった。元中日投手で現OB会長の鈴木孝政氏は1973年、高卒ルーキーで開幕1軍切符をつかんだ。「高卒の投手で開幕1軍に入ったのは中日では俺から1人も出ていない。俺の小さな自慢」と胸を張る。だが、この1年目の1軍出場は4月19日の大洋戦(川崎)の1試合だけ。右肩故障の試練が降りかかり、野球ができない状態に陥った。2年目、千葉の実家から名古屋での合同自主トレに向かう前夜は布団の中で涙するほど行きたくなかったという。

 ルーキーイヤーのスタートは良かった。オープン戦で結果も出し、開幕1軍入り。4月19日の大洋戦でプロ初登板を果たした。0-4の8回裏から3番手で登板し、1イニングを無失点。クリーンアップをピシャリと封じた。鈴木氏ははっきりと覚えていた。「最初のバッターはシピン。しびれたね、うわっ、本物だって思った。4番は松原(誠)さんで、5番は江藤慎一さん。センターフライ、センターフライ、ショートフライだった」。

 だが、その後は1軍で登板機会がなかった。甘くはなかった。「1軍にいても実戦で投げられないから、2軍に行ってローテーションに入って先発しろと言われた」という。仕切り直しの2軍では「ポンポンポンって5勝した」。だが、続かなかった。続けられなかった。「肩がいかれてしまった。持たなかったね、1月からずっと投げてて。6月でパンクした。肩を痛めたのは初めて。高校の時は何百球投げてもなかった。やっぱりプレッシャーが違っていたのかな」。

 それから“ランニング地獄”の生活が始まった。権藤博投手コーチと中山俊丈投手コーチの下で、ナゴヤ球場を走りまくった。「とんでもないメニューだったよ。午前中からずっと走っていた。タイムも計るからね。これがきつい。俺、足が速くなかったからね。俺がくしゃくしゃになって走っていたのはみんな知っていたと思う。とにかく朝、目が覚めるのが怖かった。おっかなかった。また行かなきゃいけないってね。その繰り返しだった」。

2年目の合同自主トレに向けた合流日前日「行きたくないって、涙が止まらなかった」

 夏は暑さも地獄だった。「合宿所も暑かったなぁ。(同期入団の)田野倉(利男内野手)と2人部屋だったけど、窓を開けるともっと暑いもん、熱風で。エアコン? そんなものないよ。寝られなかった。つらかったね」。グラウンドでは途中からユニホームも着なくていいと言われたそうだ。「短パンとTシャツかランニング(シャツ)。ただ走るしかなかった。ボールを投げることはない。ホント陸上選手だった。ホント馬車馬だったね」。

 結局、投げることなく1年目は終了。11月下旬に球団事務所で契約更改を終えると、その足で千葉の実家に帰った。「帰っていいって言われたので帰りましたよ。実家には50日間くらいいた。今の人と違って、何にもしなかったよ。ちょっと走ったくらいで」。翌1974年1月15日が集合日で、16日から合同自主トレが始まるスケジュールだった。

「14日の晩は家で布団に入って泣いてたもんね。行きたくないって、涙が止まらなかった。これも忘れられない。(オフの間)ずっと家族と一緒にいられたし、自由だったもん。すごい気が重かったなぁ。ホント名古屋に行きたくなかった」。その後の堂々としたマウンド上での表情からは想像もできないが、それが当時19歳の鈴木氏の姿だった。大投手にもそんな時代があった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)