2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※ …

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第15回・岡本直己(明治大―中国電力)前編



2005~2007年の3度、箱根を駆けた岡本直己(現在は中国電力所属)

 昨年の大阪マラソン・びわ湖毎日マラソン統合大会は、"胸熱"のレースだった。岡本直己は、40キロ地点ではトップを走る星岳(コニカミノルタ)、今井正人(トヨタ自動車九州)らの後塵を拝していたが、残り2.195キロでラストスパートをかけて今井をかわし、5位入賞を果たした。37歳の同期対決はその記録もさることながら、マラソンファンの心を打ち、名勝負と言われた。そこで勝ち得たMGC(マラソングランドチャンピオンシップ・10月15日開催)の出場権は、岡本にとって、五輪をかけて走るレースとしては最後になる。その日、岡本はどんな思いでスタートラインに立つのだろうか──。

 岡本が由良育英高校(現鳥取中央育英高校)時代、3つの選択肢に迷いながらも進路を決めたのは、明治大学だった。

「最初は、高卒のまま実業団に入るか、ひとつ上の先輩が立命館大に行っていたので関西で走るか、それとも3校から推薦をもらっていた関東に行くのか、3つのパターンを考えていました。明治大に決めたのは、当時、故障が多かったので、万が一走れなくなった時に名のある大学に行ったほうがいいと思ったのが理由のひとつです。一番大きかったのは入学する1年前に西(弘美)さんが明治の監督に就任されて、高校の先輩の山下(聖人)さんも行かれていたんです。尊敬する先輩から、私を含めて6名の選手が明治大に入ってくるというのを聞いて、そのメンバーとだったらこれからチームを強くして、箱根駅伝を目指せると思って選びました」

 当時の明治大は、箱根駅伝から10年以上も遠ざかり、低迷していた。アルバイトをしたり、練習に出てこなかったりする学生もいて、部の雰囲気は緩い空気が流れていたという。西監督が就任後は、箱根駅伝出場を目指して、推薦で入ってきた学生を中心にチームを改革し、練習環境を整えていた。

 岡本は、チーム改革の2年目に明治大に入学した。

「私が入学した時には、箱根を目指そうという雰囲気がチーム内にありました。それでも上の先輩には気持ちが離れている人もいました。2年の時に箱根予選会を突破するんですが、10月で引退したいので予選会で落ちてほしいと言っている人もいました。でも、やる気のある選手たちが頑張ればいいと割りきってやっていました」

 西監督の「競技優先」のポリシーが、寮での暮らしや練習にも活かされた。寮で挨拶の練習をするなど、走ることに関係ない慣習はなくなり、練習はひとつ上の強い先輩が見るようになった。それでも寮則にはないおかしなルールはあった。

「先輩が部屋を出入りするたびに挨拶をしないといけないんです。部屋を出たら『失礼します』と言い、戻ってきたら『こんにちは』と言うんですが、1回何かを取りに出て、戻ってくる度に挨拶をしないといけないんで、ここまで挨拶が必要かと思っていました。さすがに今はそういうのがなくなったと聞いていますけど」

【2年時に箱根駅伝初出場】

 1年の箱根駅伝予選会は「このメンバーだったらいける」と少し甘くみてしまい、12位で予選落ちをしたが、岡本が「いける」と踏んでいた1年生の同期には、都大路で優勝した西脇工業から田中文昭、駅伝強豪校の倉敷から池邉稔、豊川工業から青田享らがおり、みな走力があった。

「ひとつ上の先輩が箱根に出るという気持ちすごく強かったんですが、私たちの同期は全国のトップクラスの選手だったので、上を目指すのが当たり前になっていました。そういう意識が高い選手がいることでチームのレベルも徐々に上がり、2年の夏合宿の時には、予選会は十分にいけるという手応えを感じていました」

 2004年の箱根予選会、明治大は3位となり、14年ぶりの箱根駅伝出場を決めた。そのシーンは、今も忘れられないほど感動的だった。

「結果発表を待っている時が正直、箱根を走ったこと以上に楽しかったです。だいたい3位通過ぐらいだというのがわかっていたので、1、2位が発表されたあと、『次は俺たちだ』みたいな感じですごく盛り上がりました。予選突破の達成感はすごく大きかったですね。前年、予選会を通過できなくて、本番では補助員をしていたんです。知っている選手たちが背中ごしで走っているなか、『そこ、邪魔だ』とか沿道のおじさんたちに言われて、ほんと悔しかった。同じ思いは2度としたくない。来年は、自分たちが走る番だと決めていました」

 岡本個人は、明治大にとって14年ぶりの箱根がピンとこなかったが、周囲の人やOBが涙を流して喜んでいた。その姿を見て、改めて自分たちがやり遂げたことの大きさが身に染みて感じられた。

 しかし......予選会を突破したチームにありがちだが、目標達成後は少しフワフワした感じがあったという。それでも日を追うごとに部内競争は激しくなった。授業の関係で午前と午後に分かれて練習することがあったが、午後練の学生は午前練の学生のタイムを見て練習に臨み、それ以上の走りを見せようとしていた。

 そういうなかで第81回箱根駅伝を迎え、岡本は1区で出走した。

「高校時代も1区を走っていたので、箱根も1区を走りたいと思っていました。希望区間を走らせてもらったんですが、結果は16位。失敗の原因は、完全に守りに入ってしまったことです。攻めるよりも箱根を走ることを優先してしまい、結局16位なりの練習しかできなかったんです」

 予選会を突破すると箱根を走りたい気持ちがどんどん強くなった。そのために出走を第1に考えてしまい、勝負できるレベルに追い込む練習時間を十分に確保できていなかった。チームも総合18位に終わった。

【シード権は一度も獲得できず】

 3年時の箱根駅伝も1区を任された。

「2年の時、守りに入って失敗したので、3年の時は勝負を意識して臨みました」

 レースは先頭集団に入り、六郷橋の下りで一度、仕掛けた。うまくハマれば、このまま逃げきれると思ったが、他大学の選手もまだ余裕があった。

「一度は目立っておきたいなと思って仕掛けたんですが、結局に6番に沈んでいって......。木原(真佐人・中央学院大・当時1年)君が区間賞を獲ったんですが、1年生に負けたのが悔しかったですね」

 4年時は、エース区間の2区を任された。5区に挑戦したい気持ちもあったが、2区への憧れがあり、一度は走ってみたいと思っていた。2区は、のちに北京五輪1万m男子代表になった竹澤健介(早大)、前年1区で負けた木原らが出走したが、岡本は区間9位だった。トップの竹澤は67分46秒、岡本は69分24秒だった。レース後、タイムと順位の報告を受けてショックを受けた。

「力不足を感じましたね。全然歯が立たなかった。自分のなかでは、わりと会心の走りだったんですが、それでも9位だった。このまま実業団に入ったら数年でクビになると思っていました」

 チームも総合16位に沈み、箱根を走った3年間で一度もシード権を獲得することができなかった。

「明治に行くと決めた時、1年目で箱根に出て、2年目にシード権を獲得し、3年目で上位に入り、4年目で優勝とマンガみたいなことを考えていたんです。でも、甘くなかったですね。シード権はかすりもしなかったですし、10位内にも入れず、箱根の難しさを改めて思い知らされました」

 岡本は、腸脛靭帯のケガなどにも苦しみながら大学2年時から第81回、82回、83回と3回、箱根駅伝を走った。どの大会がもっとも印象に残っているのだろうか。

「やはり2年の時の1区ですね。ほんの一瞬ですが、箱根駅伝の1区でトップを走った時間があったんです。両親が沿道で応援してくれていたんですけど、その瞬間はテレビで放映されていたはずなので、地元の仲間や応援してくれる人に自分が頑張る姿を見せることができたと思うんです。自分もちょっと映りたい気持ちがありましたけど(笑)」

 岡本にとって箱根駅伝は他大学のランナーと競い、自分の力を試し、ランナーとしての自分の価値を高める舞台だったが、走ることで新たに得られたこともあった。

「箱根駅伝という注目されるレースに出れば、いろんな方に応援してもらえます。『よかったね、あのレース』と言われると本当にうれしかったですし、また頑張ろうと思えた。そうして、応援してくださる人に恩返しができる。そのことを知ることができたのが、箱根駅伝でした」

 箱根を通して応援してくれる人に感謝の気持ちを伝えたい。大学の時に芽生えた気持ちは、卒業して16年経った今もなお、岡本がレースを駆けるうえで大きなモチベーションになっている。

後編へ続く>>「厚底シューズと練習メニューを変更したことが大きい」マラソン引退を覚悟していたレースで優勝。40歳でのパリ五輪を目指す