森保ジャパンが再スタートを切っている。次回ワールドカップに向けて、あらゆる角度からチームのレベルアップを目指している日…

 森保ジャパンが再スタートを切っている。次回ワールドカップに向けて、あらゆる角度からチームのレベルアップを目指している日本代表で、サッカージャーナリスト・大住良之は、ある選手に注目している。選外の続く旗手怜央に、1982年ワールドカップでの伝説的「黄金の4人」ではなく「黄金の5人」と呼ばれるべきだったブラジル代表選手を目指すべきだと説く。

■ジュニオルという男

 Junior。これまでは「ジュニオール」とカタカナ表記されることが多かった。1980年代のブラジル代表の左サイドバックである。しかしポルトガル語では「ジュ」のところにアクセントを置いて「ジュニオ」と聞こえるような発音になる。そこでこの記事では「ジュニオル」と書くことにする。

 フルネームはレオベジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオル。1954年6月29日、ブラジル北東部のパライバ州の州都、大西洋に面するジョアン・ペソア生まれ。子どものときに家族でリオデジャネイロに移り、海岸でのサッカーで鍛えた。16歳のときに名門クラブ・フラメンゴのスカウトの目に止まったが、彼はフットサルのクラブと契約を結んだばかりで、3年間はフットサルで活躍、1973年、18歳でフラメンゴの一員となる。

 ユース・チームでボランチとしてプレー、1年後にはトップチームの練習に加わるようになり、右サイドバックとしてデビューを飾る。攻撃力をもった右サイドバックとしてすぐに頭角を現しただけでなく、大事な試合で得点を決め、優勝に貢献する。2年後には左サイドバックに移され、そこでより力を発揮することになる。

■黄金の4人とジュニオル

 ブラジル代表デビューは1979年。左サイドバックとして不可欠な存在となり、1982年に行われたワールドカップ・スペイン大会に出場する。

 この大会のブラジル代表は、大会中に4-3-3システムから4-4-2システムに変更し、2戦目以降は中盤にジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの4人が並んだ。彼らがつくり出すパスワークを主体とした攻撃は世界のファンを熱狂させ、「黄金の4人」と呼ばれた。

 しかし実際には、左サイドバックのジュニオルが左から中盤に加わったことが重要な要素だった。イタリアとの2次リーグの試合で相手ペナルティーエリアの右角でボールを受けたファルカンの外をトニーニョ・セレーゾものすごい勢いで回っていったシーンがあった。イタリアの守備がそれに気を取られた瞬間、ファルカンは自ら内側にもってはいり、左足で強烈なシュートを決めた。

 この2人はいわゆる「ボランチ」である。「攻撃的MF」であるジーコとソクラテスだけでなく、ボランチの2人までこうして「後顧の憂い」なく攻撃に加わることができた背景には、ジュニオルの存在があった。私は当時、「黄金の5人」と呼ぶべきだと考えていた。

 右サイドバックは同じフラメンゴ所属のレアンドロという選手だったが、こちらは伝統的な右サイドバック・タイプで、タッチライン沿いのプレーを得意としていた。しかし左サイドバックのジュニオルは、もちろん、ときに左を突破して左足でクロスを送るというプレーも見せたが、多くの時間は、中盤にはいり、ゲームメークを担当した。右利きのジュニオルは左サイドバックのポジションから相手ゴールに向かって前進していき、チャンスがあれば右足でシュートを打った。

 今日ではサイドバックの中盤進出は世界の潮流だが、ジュニオルはまさにその先駆けだった。それが40年以上も前のワールドカップで実現されていたという事実に、ジュニオルという選手の偉大さがある。

■ボランチとしてイタリアへ

 1984年、ジュニオルは10年間にわたってプレーしたフラメンゴを離れ、30歳にしてイタリアに移る。そしてイタリアで5シーズンを過ごした後、1989年にフラメンゴに戻り、さらに4シーズン、39歳までプレーするのだが、フラメンゴでの通算出場857試合はクラブ記録として残っている。

 イタリアでの移籍先はトリノ。彼は世界的に有名になった左サイドバックではなく中盤でのプレーを要求、それが受け容れられ、トリノをセリエA2位に導く活躍を見せた。そして1986年のワールドカップ、トニーニョ・セレーゾを欠き、ファルカンとジーコがコンディション不良のなか、ボランチとしてチームを支えたのはジュニオルだった。

 1992年、38歳で出場したドイツとの親善試合を最後にブラジル代表を引退。その後は47歳までビーチサッカーのブラジル代表として活躍した。ビーチサッカーを世界に広めるにあたって、ジュニオルの果たした役割は非常に大きいと言われている。

■2人の「レオ」

 ジュニオルはサッカー選手としての適性は間違いなくボランチ、あるいは攻撃的MFだった。ブラジル代表の10番をつける資格は十分ある才能あふれる選手だった。しかし彼は左サイドバックというポジションでフラメンゴやブラジル代表のなかに不動のポジションと世界的な名声を築き、後にボランチとしてチームを支えた。

 ジュニオルの最大の武器は最高クラスのテクニックと試合を読む目、そして周囲の選手を動かす力だったが、もちろん守備も一級品だった。彼がプレーしていた時代、彼のサイドが穴になるというようなことはまずなかった。旗手も、川崎とU-24日本代表で左サイドバックとしてプレーするうちに、しっかりとした守備を見せるようになった。父譲りの強いフィジカルがその助けになったのは言うまでもない。

 1984年、イタリアに移ったジュニオルは、「レオベジルド」というファーストネームから「レオ・ジュニオル」と呼ばれるようになった。まったく偶然のことではあるが、旗手も「レオ」である。

 私は、旗手ならジュニオルの足跡をたどれるのではないかと考えている。そして彼が左サイドバックとして日本代表のなかに確固たる地位を築いたとき、日本代表はまた一段階高いレベルに行けるはずだ。

 旗手よ、ジュニオルにならないか?

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