1970年代、"キックの鬼"と呼ばれた沢村忠が日本中に大ブームを起こしたキックボクシング。その後、人気が低迷していたキック界を、1990年代になって動かしたのが1971年生まれの立嶋篤史だった。4月16日の『KROSS×OVER.21』で…

 1970年代、"キックの鬼"と呼ばれた沢村忠が日本中に大ブームを起こしたキックボクシング。その後、人気が低迷していたキック界を、1990年代になって動かしたのが1971年生まれの立嶋篤史だった。



4月16日の『KROSS×OVER.21』で、プロのキックボクサーとして100戦目の試合に臨んだ立嶋

 4月16日、新宿FACEで行なわれた格闘技イベント『KROSS×OVER.21』のメインイベントで、立嶋は100戦目のリングに立った。かつて"史上最強の高校生"と呼ばれた男はもう51歳。

 立嶋はかつて、入場シーンだけで金が取れる選手だった。入場テーマ曲『Holding Out For A Hero』が流れると、後楽園ホールや東京ベイNKホールなど、会場のボルテージは最高潮に達したものだ。リングに上がるまでに10分以上かかることも珍しくなかった。

 しかしこの日は、「立嶋篤史選手の入場です」とコールされた100秒後にはリングに立っていた。ゆっくり入場しても、それだけしか時間がかからないほど会場は小さい。

 立嶋がリング上で、いつも通りの居合切りのパフォーマンスを見せても、相手陣営の声援にかき消されてしまう。57.15キロ(フェザー級)の計量をパスした立嶋のシルエットは変わらないが、その環境はまったく違っていた。

 対戦相手の松元仁志は1988年生まれ。当然、立嶋の全盛期を知らない。

 立嶋は16歳の時、1987年8月にタイでプロデビュー。全日本フェザー級王座を獲得し、タイの強豪選手を倒したこともあった。清水隆広、山崎路晃、前田憲作らとの名勝負を覚えているキックファンも多いだろう。1994年には、年俸1200万円の契約を結んだキックボクサーとして注目を浴びた。

 しかし、2001年頃から敗戦が続き、交通事故のためにリングを離れたこともあった。99戦を終えた時点での戦績は42勝(27KO)49敗8分。

 筆者が初めて立嶋を取材したのは30年以上も前のことだ。今回の試合前に、1993年秋の発言を読み返してみた。

「どれくらい走って、どれくらい練習すればいいのかは僕が一番わかっている。いつも通りに苦しい練習をするのが、僕のいつも通り」

 50歳を越えた今も、30キロのロードワークとジムでの練習を怠ることはないという。それが勝利に結びつくのか。

 試合開始のゴングが鳴る。

 サウスポースタイルの松元の右ジャブで立嶋がバランスを崩す。前に、前に出ようとするものの、なかなか有効打が出ない。逆に左ストレートを顔面に浴び、棒立ちになる場面が見られた。

 2ラウンド目になると、立嶋はさらに劣勢になった。バランスを崩して倒れそうになり、ロープを掴んだシーンで観客からため息が漏れる。コーナーに詰められ、松元の連打で防戦一方になったところで、立嶋コールと松元コールがぶつかりあった。

 立嶋の顔が鼻血で赤く染まっている。パンチもキックも相手に届かず、また連打を受けて棒立ちになった。2ラウンドが終わった瞬間、再び両者のコールが飛び交った。

 3ラウンドが始まっても、立嶋は主導権を握れない。攻撃は空を切り、相手のパンチを顔面に受けて倒れそうになる。かつて、何度も立嶋を救ったヒジによる攻撃も不発に終わる。

 終盤に松元がラッシュをかけると、「倒せ! 倒せ!」という声援と悲鳴が重なった――左フックで立嶋が倒れた瞬間、レフェリーが試合を止めた。2分59秒、TKO負けだった。

 試合後、自分でバンテージを外しながら、立嶋は記者の質問に対してポツリポツリと言葉を吐き出した。報道陣は4名しかいない。立嶋は言う。

「これまで悔しくない日は一日もなかった。言葉にできる思いもあれば、できない思いもあります。派手にKOで勝った時でも、悔しい思いがありました。

(今日は負けたが)悔しいという点では同じです。『悔しかったら、頑張れよ』と自分に対して思います。それもこれまでと変わりません。もうちょっとだけのこの表現方法(キックボクシング)を続けていきたい」

 この日、何度も"立嶋コール"が響いた。フラフラになっても踏ん張れたのは、それがあったからだ。

「お客さんの声が聞こえなかったことはありません。僕はお客さんの立嶋コールがあったから頑張ってこれた。練習で苦しい時、減量で苦しい時、走っていて苦しい時、いつも『タテシマ~、タテシマ~』という声が聞こえてきました。みんなの声が僕の鼓膜にこびりついています。僕はずっと励まされてきました」

 だからこそ、ファンに自分らしい戦いを見せたかった。

「今日はみんなに、『立嶋の試合を見にきてよかったな』と思わせてあげることができなかったことが悔しいです」

 2008年に出版された書籍『ざまぁみろ!』(立嶋篤史、幻冬舎アウトロー文庫)の中で立嶋はこう書いている。

「負けたくらいで気持ちは萎えない。また、頑張ればいい。悔しかったら、もっと頑張ればいい。それが嫌ならやめればいい」

 その姿勢が100戦目を迎える原動力になった。

「僕は自分を納得させるためにやっているだけで、最後は静かに消えていけばいいと思っています。ただ、最近は少し(メディアなどで)注目されていて、それはそれでうれしい」

 立嶋のコメントを聞きながら、30年前の言葉を思い出した。

「つまらない相手に派手な勝ち方をするのが得で、勝てるかどうかわからない相手と戦ってぶっ飛ばされることを損だとするならば、僕は損を選びますよ」

 これまで「肉を斬らせて骨を断つ」戦い方で、幾多の名勝負と逆転劇を生んできた。しかし、20歳の時の立嶋はもうどこにもいない。それは本人が一番わかっているはずだ。100回も繰り返した減量、激しい蹴り合い、殴り合いが肉体にダメージを与えないはずはない。本人はきっと「大丈夫です」と笑うだろうが......。

 100戦目を終えた立嶋は、戦いの場を用意されれば、またリングに上がるだろう。

「自分の人生は自分の為に、誰も代わりに生きてくれない。僕は自分の為に息をして、自分の為に頑張りたい。そして、自分の為に笑いたい」(『ざまぁみろ!』より)

 立嶋に引きつけられる者たちは、不器用な男の無骨な戦いをただ見守るしかない。ならば......と思う。最後の試合は、笑いながらリングから降りてほしいと。