フィリップ・トルシエベトナム代表監督就任インタビュー(1) フィリップ・トルシエのベトナム代表監督就任が発表されたのは、…
フィリップ・トルシエ
ベトナム代表監督就任インタビュー(1)
フィリップ・トルシエのベトナム代表監督就任が発表されたのは、2月27日のことだった。
トルシエとベトナムの関係は深い。2018年6月にPVFフットボールアカデミー(※1)のテクニカルディレクターに就任し、翌年9月からはU-19ベトナム代表監督を兼任した。
※1=ベトナムサッカー才能育成基金。ベトナム最大のコングロマリットであるビングループがハノイ郊外に創設した私設アカデミー。日本のJヴィレッジのような施設で、12歳~19歳の子どもたちを全寮制で育成していく。現在の経営はビングループから離れている。
だがコロナの影響もあり、同監督の契約切れとなる2021年5月31日をもって、トルシエはベトナムを離れてフランスに帰国していた。
そのトルシエがおよそ2年のブランクを経て、再びベトナムに戻った。それも、日本代表監督時代と同じく、A代表と五輪代表のふたつのチームを兼任する監督として。
カタールW杯アジア最終予選で日本相手に引き分けるなど、確かに近年のベトナムの躍進は目覚ましい。タイと並ぶ東南アジアの強豪であり、アジアのなかでも存在感を増しつつある。
ではトルシエは、ベトナムサッカーのどこに可能性を感じたのか。ハノイでの記者会見の直後に電話インタビューを敢行。トルシエの本音に迫った――。

ベトナム代表監督に就任したフィリップ・トルシエ
――記者会見のテーマはどういったものだったのでしょうか。
「U-23ベトナム代表の1週間にわたる合宿の終了会見だった。私が最初に携わった仕事で、選手のポテンシャルが確認できた。直近の大会にシーゲームズ(※2)がある。そのために、40人の選手を招集した。22歳以下の選手たちだ。
※2=東南アジア競技大会。アジア大会の東南アジア版で、第32回大会となる今年は5月5日~17日にカンボジアで開催される。
そして明日からは、やはり1週間の日程でA代表の合宿が始まる」
――日本で始動した時と似たようなスタートですね。ここからは、どういった活動になるのでしょうか。
「先の(1週間の合宿に呼んだ)22歳以下のグループから10数人の選手を外し、残ったメンバーに22人のA代表を加えたグループで8日間の合宿を行なって、そのあとは23歳以下の活動を継続していく。3月末にカタールで国際大会があるからだ」
――ベトナムでの活動の第一歩の手応えはいかがですか。
「いいスタートをきれたと満足している。(ベトナムサッカー界のいろいろな)環境を把握できたし、自分の居場所も確保できた。
以前にもPVFで働き、代表の仕事にも従事していたから、ベトナムのことはよく知っている。そのうえ、23歳以下の選手たちの80%は、私がU-19代表監督時代に指導した選手たちだ。
だから、合宿はとても有意義だったし、すぐに本格的な活動を始めることができた。どんなふうにプレーするか、戦術練習にもすぐに入っていけたし、私のコレクティブな要求に、選手たちが十分に応えられることも確認できた」
――すでに継続性のなかにいるわけですね。
「そのとおりだ。確かに2年の断絶はあったが、2歳年上になったグループとの継続的な活動の再開だ。選手はより成熟し、マネジメント面における選手との関係も、私が彼らに求める技術的・戦術的な要求も、すべてが継続している。
そのうえで、さまざまなセクターの強化を図っている。選手は進歩を遂げ、彼らも私の要求をよく理解しているからだ。カタール国際に向けての準備も進めることができた」
――少し話を戻して、今回の契約に至ったプロセスを教えてください。交渉の経緯とともに、ベトナムを選んだ理由も聞かせてください。
「2年前にベトナムを離れたのは、ビングループが私との契約を打ちきったからだ。彼らはアカデミーの売却を決めた。投資の対象を広げ、サッカー以外に投資を行なうようになった。その結果、私の契約も終了することになった。
同時にコロナが重なった。多くの大会やリーグが中断・延期となり、協会は私との関係を維持したかったが、条件面で合意に達することができなかった。また、健康面の問題もあった。私の膝は手術を要する状態だった。
それでフランスに帰国したが、ベトナム協会会長やチームマネジャーとの関係はずっと続いていた。だから1年半前に、ベトナム女子代表がフランスと対戦した際には、彼らは私を試合に招待した。
そうしたなかで、朴恒緒(パク・ハンソ)前監督(※3)との契約が終了し、『その跡を継ぐ気があるか』と(ベトナム協会から)確認の電話を受けた。
※3=2017年9月から2023年1月までベトナム代表監督を務め、五輪代表監督も兼任。この間、U-23アジア選手権決勝進出、アジア大会ベスト4、AFFカップ(東南アジア選手権)優勝、シーゲームズ2連覇、アジアカップベスト8など、ベトナムサッカーのレベルを飛躍的に向上させた。大の日本嫌いとしても知られる。
交渉が始まったのは、(2022年)11月になってからだが、瞬く間に合意に達した。即決したのは、私が金銭面の要求を一切しなかったからだ。朴と同じ条件という、彼らの提示額をそのまま受け入れた。協会も新たな出費を迫られることなく、これまでと同額の支出を継続すればよかった。
(自分も)ベトナムに戻りたい気持ちは強く、モチベーションは高かった。好きな国だったし、選手のポテンシャルにも魅力を感じていた。協会の人々への信頼もあったし、サポーターにも親近感を感じていた」
――ベトナムを離れた2年前の時点で、協会にはあなたに朴監督の跡を継いでほしいという気持ちがあったのでしょうか。
「そうだが、それは非公式なものだった。協会幹部のなかに、その気持ちを抱いている人たちがいるのは私も感じていた。自分の席が用意されているとも思った。
しかし当時はまだ、朴が代表監督に就いていた。そこに曖昧さは一切なく、彼が代表監督である間は、私の名前が挙がることはまったくなかった。実際にコンタクトがあったのは、朴の契約終了が公式に発表されてからだ。とはいえ、会長や協会の信頼は感じていた」
――ベトナムサッカーにはポテンシャルがあると言っていますが、ベトナムの現状をどう見ていますか。また、どこに目標を置いているのでしょうか。
「代表チームが得た結果やトロフィーを見た時、東南アジアのなかでベトナムは大国のひとつであることを認識した。2度のシーゲームズ優勝に、AFFカップも制した。直近のAFFカップでも決勝に進んだ。(東南アジアで)ナンバー1のチームといっても過言ではない。それが、今日のベトナムのレベルだ。
私の目的はふたつある。この東南アジアナンバー1のレベルを維持し続けることと、東南アジアを抜け出して世界60位までの国々に対して、パフォーマンスで成果を挙げることだ。
具体的には、2026年W杯のアジア予選突破。そのために、あらゆる可能性を追求し、最大限の努力をしていきたい。W杯は2026年から大会形式が変わり、出場国が48に拡大する。そのひとつを、ベトナムが獲得したい。その可能性がベトナムの人々に希望を与える。
しかし希望の達成には、実際の行動を伴わねばならない。というのも、その希望はUAEやカタール、バーレーン、オマーン、ウズベキスタン、中国、タイ、マレーシア、インドネシアらが抱いている希望でもあるからだ。
新たなW杯の形式は、アジアの多くの国に希望を与えた。チャレンジは決して簡単ではなく、常に困難がつきまとう」
――現在のベトナムは、アジアのなかでどの程度の地位にあると見ていますか。
「15~16位といったところだろう。それ以下かもしれない。
だが、本大会への椅子は8つしか用意されていない。大変なチャレンジには違いないが、小さな希望の窓は常に開いている。目的はこの窓をうまく利用することだ。私のこれまでの国際経験を、ベトナムの人たちと分かち合いながら。
それは、私が日本で行なってきたことでもあった。25年前の日本には、ヨーロッパでプレーする選手はほとんどいなかった。だから、私はラボラトリー(※4)を作り上げて、選手に必要な情報を与えた。効果的なパフォーマンスを実現するために、彼らの行動様式を変え、戦う武器を与えた。
※4=実験室の意。主に合宿により、選手に戦術とシステムを理解させ、トルシエ流のスタイルを身につけさせるための実践の場。
繰り返すと、目的は東南アジアでのステイタスを維持しながら、そこを超えてW杯予選を突破するパフォーマンスを発揮できるようになることだ。そのための方法として、目的に沿って私のメソッドを推し進め、クラブとの間にバランスのとれた関係を築いていく」
(文中敬称略)
フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。