佐々岡真司氏は1991年、優勝がかかった試合でハプニングに見舞われた 広島の“コンタクト事件”といえば、達川光男捕手を思…

佐々岡真司氏は1991年、優勝がかかった試合でハプニングに見舞われた

 広島の“コンタクト事件”といえば、達川光男捕手を思い浮かべる人は多いだろう。1990年8月28日の中日対広島(ナゴヤ球場)。試合中のグラウンドにコンタクトレンズを落としてしまい、タイムをかけ、懸命に探すシーンはテレビ番組などでも取り上げられ有名になった。だが、翌1991年にも“コンタクト事件”が起きていた。その時の“主役”は達川ではなく、佐々岡真司投手。それも優勝を決めた10月13日の阪神戦(広島)だった。

 前広島監督で野球評論家の佐々岡氏はプロ1年目の1990年、いきなり先発、抑えにフル回転し、13勝11敗17セーブの成績を残した。しかし、新人王には縁がなかった。受賞したのは31セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得した中日・与田剛投手。「(記者投票の)票数はかなりの差だった。与田さんの157キロとか、あのボール見たら、あのイメージがやっぱりそうなるよね」と振り返ったが、当時は悔しくてたまらなかった。

「やっぱり一生に1回しか取れない賞だからね。次の年は違うタイトルを取ってやるって思いましたよ」。1991年シーズンは、その気迫で2年目のジンクスも吹き飛ばした。1年目以上の大活躍。17勝9敗、防御率2.44の成績でチームの優勝に大貢献した。先発の柱としてだけでなく「後半は中2日や中3日でリリーフしたりもあったね」と話したように13完投、5完封、240イニングを投げた。最多勝利、最優秀防御率、沢村賞、シーズンMVPにも輝いた。

 そのリーグ優勝決定試合で、佐々岡氏は“コンタクト事件”を起こしていた。「あの日(10月13日)は阪神とのダブルヘッダーだった。最初は1試合目に先発予定だったけど、前の日に川口さんで勝ってマジック1になったから、とりあえず1戦目はなしになった。1試合目に負けた時だけ、2試合目に行くってことになっていた。ホームの最終戦だから。ホームで優勝を決めたいからって」。緊迫感MAX。そんな中でコンタクトが……。

右目にコンタクトレンズを入れぬまま登板…8回途中無失点の好投を見せた

 佐々岡氏は10月9日の中日戦で完封勝利をマーク。13日は中3日でのマウンドになり、首脳陣にしてみれば19日開幕の日本シリーズを考えて、できるだけ投げさせたくなかったようだが、1試合目に敗れ、出番となった。「マッサージしながら待っていたけど、長かった。1試合目は延長に入って負けましたからね。終わって2試合目が始まるまでに15分か20分しかないと言われて、コンタクトを入れようと思ったら手が震えて……」

 左目には何とか入ったが、右目にはどうしても入れられなかった。時間が迫ってきて、気持ちも焦る。それでも入らない。どうしよう、どうしようと思っているうちにとうとう時間がなくなった。結局「右目はコンタクトが入っていないまま、マウンドに上がった」のだ。その状況を達川捕手にも伝え、サインが見えなくなった時には出し方も工夫してもらったという。

「試合中にコンタクトを入れるには、手を洗わなければいけないじゃないですか。ロジンもつけているし、洗って(手を)冷たくしたりするのも嫌だったから、ずっとそのままの状態で投げました」。まさかの“コンタクト事件”だったが、佐々岡氏はそれも乗り越えて好投した。1-0のしびれる試合展開で、8回途中まで6安打無失点。その後も大野豊投手がピシャリと締めて、歓喜のVを成し遂げた。

「8回ノーアウト一塁になって(監督の山本)浩二さんがマウンドに来た。その回まで投げ切って9回を大野さんにって思っていたし、浩二さんもそのつもりで(ベンチに)帰ろうとしたら、達川さんが『代えましょう、もう無理です』と言って大野さんに交代になりました」と懐かしそうに話したが、舞台裏は大変だった。コンタクトの一件は、忘れられない思い出でもあるわけだ。そして西武との日本シリーズ。佐々岡氏は第1戦、第4戦、第7戦に先発した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)