佐々岡真司氏は同学年のKKコンビを見て「プロは到底無理」 母一人、子一人。母はいつも息子のことを心配し、息子もまた母親の…
佐々岡真司氏は同学年のKKコンビを見て「プロは到底無理」
母一人、子一人。母はいつも息子のことを心配し、息子もまた母親のことを真っ先に気遣った。前広島監督の佐々岡真司氏は母・江美子さんの女手一つで育てられた。周囲への感謝の心を忘れてはいけない。2012年に他界した母の言葉はいつも頭の中に残っている。広島にあるお墓にはことあるごとに報告に出かける。監督時代は広島での試合前にも足を運んで手を合わせた。佐々岡氏のこれまでを振り返ればお母さん抜きには語れない。高校時代、進路を決める時もそうだった。
浜田商3年になって、プロからも注目される右腕に成長した佐々岡氏だが、夏の島根県大会準決勝で大社に敗れて、野球をやめることを決意した。「地元(島根県那賀郡金城町=現・浜田市)に残って就職して、母の面倒を見ようというのが一番だったから。確か(大社に)負けた夜に母にもそう言ったと思う」。反対されなかったという。「やっぱり母も残ってほしかったんだと思う。心配症でさみしがり屋だったろうから」。
子どもの頃、なぜか赤色が好きだった。当時はテレビ中継も巨人戦中心。巨人ファンがほとんどだった中で、赤いカープの帽子をかぶって広島ファンになった。「家が民宿をやっていて、ほとんどが広島からのお客さんだったこともあると思う」。広島市民球場にも母に連れていってもらった。土曜日の広島対巨人。広島・池谷公二郎投手が投げていたのを覚えている。プロ野球選手になりたい、カープの選手になりたい。そんな夢を高3の夏、自ら諦めることを決めたのだった。
そもそも高校時代も野球のために家から出て下宿していた。「最終便のバスで帰ったら野球の練習ができないから」だった。母はプロ野球選手になりたいという夢を追いかけさせてくれた。結果、プロに注目されるようになった。だが、その時は自分の力では通用しないと考えた。「(PL学園の)桑田、清原のKKコンビを見て、甲子園のスターを見て、僕にはプロは到底無理と思った」。
NTT中国で野球を続行…カープも手を引いた
夏の大会が終わってからは下宿する必要もなくなり、自宅から浜田商に通った。そんな状態から、もう一度、野球の道に戻ったのはプロのスカウトたちに説得されたからだった。「2学期が始まったら、スカウトの人たちが挨拶に来た。その時にも野球をやめます、という話をしたら『なんでやめるんだ』『やめるのはもったいない』とずっと言われたんです」。ほとんどの球団のスカウトが来たという。それで考え直し始めた。
「ドラフト5位とか6位とかで将来性を考えて獲るってことでした。もともとプロに行きたかったわけですから、正直プロもいいかなって、思いましたね」。大好きなカープに行ける可能性もゼロではなかったので揺れた。だけど、やはり自信もなかった。
そんな時だった。「社会人からもいくつか話はあったんですが、NTTの監督とマネジャーが家まで来て、誘ってくれたんです」。広島市のNTT中国。「母も、広島なら、社会人ならと渋々OKしてくれたと思う。それでプロは断った」。
広島の備前喜夫スカウトもNTT中国なら、と手を引いた。当時、カープの2軍がNTTのグラウンドを借りていた。「『NTTにはお世話になっているから、ケンカはできない。そっちに行って3年後に獲れる選手になってくれ』と言われた」。その部分の踏ん切りもついたわけだ。だが、社会人生活も甘くはなかった。自信を喪失しそうな時もあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)