福井商高の中村悠平(現・ヤクルト)に会って、話がしてみたいと思ったのは、甲子園での「世話女房ぶり」に胸を揺さぶられたか…

 福井商高の中村悠平(現・ヤクルト)に会って、話がしてみたいと思ったのは、甲子園での「世話女房ぶり」に胸を揺さぶられたからだ。2008年夏の甲子園で見た中村の仕事ぶりが、気になって仕方がなかった。

 中村は2年生エースの竹沢佳汰(元トヨタ自動車)とバッテリーを組み、初戦の酒田南高(山形)を1点に抑えて、2回戦に駒を進めていた。



福井商3年時の中村悠平(写真右)。左は2年生エースの竹沢佳汰

【根っからの捕手気質】

 185センチの長身左腕・竹沢は、福井大会までに左腕を痛めていた。ただでさえ緊張する甲子園のマウンドで、故障明けの不安を抱えながら強敵に立ち向かう。こういう時こそ、女房役である捕手の腕の見せどころである。

 中村はイニングの頭で必ずマウンドに行って、竹沢に声をかけていた。打席にクリーンアップ、前の打席で痛打を食らった打者を迎えれば、バッテリー間の真ん中あたりから声をかける......。こんな具合に、後輩エースを励まし、何かを察知すれば声をかけていた。その"距離感"が絶妙に見えた。

 投手というのはじつにデリケートで、なんでもかんでもかまってあげればいいというものではない。私の現役時代、本塁打を打たれた直後にマウンドに行って励まそうと思ったら、拒否されたことがあった。

「あの場面でマウンドに来られたら、オレがダメなヤツに見えるだろ」

 ベンチでそう言われた時、投手の心理とはそういうものか......と感心したものだった。

 夏の甲子園が終わり、ぜひとも中村に会ってみたくなり、ある雑誌の取材で福井商を訪れた。

「わざわざこんな遠くの福井まで、ありがとうございます」

 初めて顔を合わせて、最初のひと言がこうだったから驚いた。

「実戦のピッチングっていうのは、ピッチャーとキャッチャーの共同作業ですから......」

 その時の取材メモがこんな記述で始まっているので、いきなりシリアスな話から切り出してきたのだろう。

「できるだけピッチャーの性格を把握して、学校生活からコミュニケーションを欠かさないようにして、距離を近くしておかないと......試合になったら共同生活なんですから」

 思ったとおり、"お世話"のできるヤツだ。

「レギュラーで唯一の2年生だったんですよ、竹沢は。だから甲子園では周りに遠慮しないように、がむしゃらに自分の力をすべて出して欲しかった。サインに首を振っていいから、投げたいボールを投げてほしかった。まず僕に慣れてもらうために、下宿先に呼んでいろんな話をしたりしました。一緒にゼリーを食べながら(笑)」

【チームメイトには嫌われていた】

 当時、中村は学校の近くに下宿していた。名刹・永平寺に近い実家から、電車を乗り継いで通うこともできたが、その往復の2時間あまりを"野球"のために使おうとしていた。

「『甲子園ではオレを信じて投げろ!』って、そればかり言っていたような気がします。竹沢は長身で腕も長くて、大型左腕にありがちなフォームのぎこちなさもなく、1年からベンチに入っていて期待されていたんですよ。でも責任感がもうひとつっていうか、2年でエース格になってもなかなか自覚を持てず、ここぞという場面でボールを置きにいって打たれることがあったんです。それで『自分を信じられないんだったら、オレを信じて投げろ!』って」

 敦賀気比、福井工大福井、北陸、さらに公立校にも強豪校が何校もあって、参加校数は少なくても激戦の福井大会。

 そこを名門・福井商のエースとして勝ち抜き、甲子園の初戦でもわずか5安打1失点の完投勝利。2年生エース・竹沢は、"世話女房"のおかげでプロ注目の左腕にまで台頭していた。

「最終的にはアイコンタクトで会話できるようになりたかったんですけど、そこまではどうだったかな......」

 こういう時に、クリクリまなこでにっこり笑う中村は、当時から愛すべきキャラだった。

「甲子園では、次の試合で竹沢が仙台育英(宮城)に打ち込まれて負けたんですけど、こっちに帰ってきてから、あいつが『中村さんについてきてよかったです』って言ってくれて......もともと控えめで、自分から何かを言うヤツじゃなかったのに......泣ける言葉じゃないですか。ひとりのピッチャーをずっと見てきて、『育てられた!』って実感しましたね」

 目のふちを赤くしながら、感動している中村を見て思ったのは、キャッチャーというポジションに必要なのは、強肩としつこさと、こういう感受性なのかもしれない。

「自分、きっとチームメイトには嫌われていたと思いますよ。キャッチャーは"指導者"だと思っていますから。グラウンドマネージャーって言うのか、逆にほかの選手たちと同じ目線じゃいけない。必要があれば、同期の3年生も叱れないと、僕がいる意味がないと思っていました。『甲子園に行きたいから叱るんだ。これはオレからのアドバイスだから』と。あえて、自分が傷つくリスクを冒しても、チームのために......なんて言ったら、カッコよすぎるんですけど」

 そう言いながら、また目をクリッとさせて、愛嬌のある笑顔を見せた。

【20年にひとりの逸材】

「ウチ(福井商)は歴史のある学校なんで、いい選手がどんどん入ってくるように思われているんですけど、じつはそうでもなくて......」

 そう語ったのは、福井商の北野尚文監督だ。この2年後の2010年に勇退されるまで、春夏合わせて36回も甲子園に出場した名将である。

「近年はいい選手に声をかけても、なかなかの入学難で...そんななか(中村)悠平は、間違いなく20年にひとりのキャッチャーですね、ウチでは」

 たしかに、夏の甲子園での中村のスローイングはすばらしかった。二塁送球の際のしなやかな腕の振り、投手に返球する時のスナップスローの鮮やかさ。それ以上に、フットワークで腕を振るメカニズムが低い送球姿勢につながっていて、安定感抜群の送球軌道を生んでいた。

「地を這うような送球が、マウンドの向こうでグーンとホップするような......ね。入学してきた頃から、もうそういうボールを投げていました。悠平の代でなかなかエースをつくれなくて、3年の春に一時期ピッチャーで使ったことがあったんですけど、あの時は本人もまんざらではなかったと思いますよ」

 入学時からかなりの期待を背負っただけに、中村本人は相当苦労したはずと、北野監督は話してくれた。

「ピッチャーが弱い時期でしたから、悠平も下級生の頃からマスクを被って、打たれると自分のせいだと感じる性格なので、つらかったはずですよ。ただピッチャーが弱いとキャッチャーが育ちますね。その場その場で、ピンチをしのいでいくとっさの知恵みたいなものが身につきます。あれこれと一日中野球のことを考えて、たぶん教室でも前の試合でやられた原因だの、そんなことばかり考えていたと思いますよ。キャッチャーとしての"頭"と"心"ができたんじゃないでしょうか」

【タフな肉体とメンタル】

 フィジカルもトップクラスだった。あるスポーツ用品メーカーが行なったスピード・パワーテストで、5点満点中の5点評価。3000人にわずか数人の能力の高さだったという。

「3年の春から夏にかけては、土日の練習試合4試合、すべてマスクをかぶらせました。悠平にとっても、私にとっても、勝負をかけた時期でした。でも、クタクタになりながらも、やりきった悠平はすごいですよ。体もメンタルも本当にタフで。天性の明るさで乗りきりましたからね」

 ドラフトまであと1カ月ほどの時期だっただろうか。新チームの練習が行なわれているグラウンド脇の監督室で、中村との野球談義は3時間以上にも及んでいた。

 練習が終わって、監督がお帰りになり、部長先生もお帰りになり、それでもまだ話が終わらず、「校門を閉めますから」と守衛さんに言われてもまだ話が終わらず、最後は彼の行きつけの店で話の続きを......となった。

 だが目指したお店も閉まっていて、「この時間なら仕方ないね」と、うしろ髪を引かれる思いで解散となったのだが、時間は夜9時をまわっていた。

 ここ数年はキャンプ中でのアイコンタクトだけで、じっくり言葉を交わしたことはないが、その間、2年連続セ・リーグ優勝に導き、2021年は日本一に輝いた。そしてこの春、堂々の実績を引っ提げてのWBC参戦だ。

 高校時代、それほどすごい実績があるわけでもない捕手がひっそりとプロに進んで、レギュラーマスクの座をつかんだ。その間、辛酸をなめながら、どれほどの努力を尽くしてきたことか。

 マウンドで華やかに輝く投手たちに目を奪われるなかで、ひっそりと"空気"のようなさりげなさで中村が1球1球、丁寧に剛球をミットにおさめている。